■本郷の回覧板

昔空間散歩の薦め

本郷 −菊坂の与太郎−

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戸田茂睡と炭団坂V

物語

本郷 菊坂の与太郎(戯言編)

る日、出涸らし亭主モードで古地図を広げ昔空間散歩を散歩していました。アレー、仙川(千川)上水を辿っていたら?・・・何か変。

何がって、ホラ「木戸」や「木戸番小屋」「辻番」の位置をヨク見て欲しい。 以前、「東大下水をたどる」の【富士権現】を調べている内に一枚の絵図と出合ってそのもう一つの理由が判明しました。そう、世は太平になるがゆえ腕試しや、新刀などの試し切りを不貞の輩が、辻斬りという形で行い非道な行いをする物騒な世の中が訪れた為です。そこで寛永六年から各辻に「辻番」を設けそれぞれの受け持ち範囲で責任を取らせたからでした。

その絵図とは、所蔵図書【加賀殿再訪・西秋良宏編】の口絵P10/11「将軍の姫君登城途中の図」(M22年出版・徳川盛世録)です。そこには、現本郷三丁目交差点付近におけるクランク状の春日通の続きに面して(大木戸)門が存在していた様子が描かれています。

成る程そう云えば「松の栄」M22年出版【加賀殿再訪西秋良宏編】のP66には、遥か彼方に、本多藩邸前(森川宿辺りにも関所のような木戸門が描かれています。)そういえば治安の為の、木戸番とサイズも規格化された番小屋が各町内で存在し、夜になると大木戸は閉められ、閉門以後は木戸番を通じて、拍子木の音に送られ脇の小さな門より隣の町内に申し送られたことを思い出しました。と書きましたがホラ、わかっちゃったでしょ、勿論時代によって、その必要性により辻番所や木戸小屋、自身番所の数が増えたり、減ったりはしたでしょうけどコレ皆さんは何と思いますか?。因みに、一昨年「昔空間散歩」をした真砂図書館所蔵の『本郷古図』を探る! では、「一里塚」本郷追分高崎屋の反対側に、水戸藩下屋敷側に「辻番」として記されている。以前は森川宿発祥の森川金右エ門が警備に当たっていた処だ、またその近くには、通りを横断して掛けられていた石橋が追分地図には描かれていた。でも、本郷三丁目交差点近くの流水「東大下水」位置には石橋等の表示がドコを探しても描かれていない。もうこの頃は明暦の大火か天和の火災で、猛火に追われ、避難する時川に落ち亡くなったり怪我をする者が多かった為、以後避難に障害になる川筋水流は、暗渠化されたとも聞いております。そのせいでしょうか。

次に東大農学部前より、南下し以前過激派攻撃にあった。「弥生町交番」派出所前を通り、弥生町交差点、言門通りを渡る、昔はこんな道も無かったのになあ・・。今は工学部がある当たりは東大正門脇まで、町屋が明治期までありここには、矯風会の会頭となる山田恒(ガントレット恒)や「山田耕筰」が幼い時を過ごしたところです。この工学部一帯の「町屋」辺りは先程の辻番あたりから「御先手組」さらに遡ると「中山勘解由」そしてその前に「矢代越中与力同心」があった場所です。明治期取払われた当時住んでいた紙専門店「」が、本郷通り反対の場所で今も老舗を守っておられます、子供の頃は反対側に住んでいた事を覚えていらっしゃいました。この東大正門前には本多藩がありましたが本郷六丁目境に「松の栄」の画にあるように「北大木戸」が存在しており古地図でも文章でも確認されている位置です。またこの旧・森川町の本多中務大輔屋敷、下屋敷(文政細見江図や御府内備考と・本郷古図では中屋敷)表記がある。これは※1670(寛文10)年庚戌 本多正勝の時「黒田勘解由」ヨリ2萬3.200坪4.500両にて買求メタモノ、それで廃藩置県後も映世神社を中心に明治期に入ってもその存在が変わらなかったようだ。「大邸記」では本多中務大輔下屋敷 森川宿坪数弐萬3.173坪と表記がある) (東京市史稿 岡崎藩 P470)

北木戸になる、この木戸は、その後仙川上水の項に顔を出した。そこで水道歴史館を訪ね資料を探していたら、

◆1696(元禄九)年 仙川上水が一度敷設され、−×1714(正徳4)年柳沢の六義園閉鎖/−にともない1722(享保7)年に一度埋められた。ところが小笠原佐渡守屋敷近く余語古庵屋敷隣家にあの賄賂事件で有名な沼田氏が居住、水の便を考えたのであろうか。沼田政権の肝いりで仙川上水が再び復活している・・。

○1780(安永九)年往還東の方へ寄り大樋掛り。北木戸際へ小桝復興〜本郷地区として、本郷六丁目「安永九年中、往還同所五丁目境より百六十間程、往来中程に埋め小樋掛かり、小桝四ヶ所これあり候所、天明七年四月十三日お差止めに相成り候う旨仰せ渡され候う由にて、その節に取り潰し埋立て申し候う」。

×1786(天明七)年未四月中差止に相成埋立申候、とある。辻番、木戸小屋の番太郎は、安い賃金を補うため、牛天神下の辻番のように「水の番」などの副業を持っていた。例えば「牛天神下」の「木戸番」は「上水番」を兼ねていた記録も残っている、さらに駄菓子、雑貨等の販売も行ってやっと生計を立てていた。

◎1671(寛文11)年新板江戸外絵図では<本郷三丁目交差点 >、旧「か祢やす」位置側の近藤屋敷内の菩提寺「大安寺」(後に二分した講安寺の開祖側に、吸収されたお寺)もあります。そして次に、春日通り沿い「日蔭町」出入り口に、目を転じると旧加賀藩経営の「錦城銀行」があった富士銀行位置(H20年現在・ソフトBANK携帯ショップ)位置には「辻番」木戸番小屋(番所)があり木戸が見られる。

そして今一つは「か祢やす」側から本郷三丁目交番側に木戸が描かれている。※追記 《ソバリストとしても有名な、「文京ふるさと歴史館・友の会」会員でもある、「ほしひかる」氏が同「友の会だより」増刊号]Y『花時計』H200601発行に●本郷春日通り 木戸番小屋-焼芋のふるさと-としてコメントを寄せた。それによると「薩摩芋は、それまで蒸していたのですが、1793(寛政五)年冬、本郷四丁目の木戸番が内職として、行燈に「八里半」(栗に近いという意味)と書いて初めて石焼き芋を売ったというのです。「宝暦現来集」山田桂翁著。>引用終わり。

◆あれ、本妙寺谷の角にも「辻番」が、

本妙寺谷角にも「辻番」木戸番小屋もしくは(自身番所)がおおまさしくココは、「道造り屋敷残地」明治まで存在した。あの小石川養生所持ちの土地位置ではございませんか。ホホホ世の中実に面白い。

 

ということは江戸の地図としては、※二番目に古い下の正保地図では本妙寺坂から本妙寺谷を通り道は、船が通る程の川幅だった為か【東大下水】によって分断されていたようで、道が赤丸内の様に無い。

※江戸城下を描いたもので一番古いのは、大分県の臼杵市立図書館が所蔵する古地図「江戸全図」が寛永20年(1643)の江戸城下を描いたものであることが、広島大学大学院金行助手の調査で分かった。そうだ https://www.castle7.org/news2006/200609.html

・これでは「梨木坂」に住んでいた頃の『戸田茂睡翁』も、明治22年開通する新道「菊坂の通り」が出来るまで@附木店を通り、「丸山通り」(古老の伝えで現在の処ハッキリしていないので仮称とする。)経由で「梨木坂」に出るか、A後の菊坂田町と阿部様馬場近くの境を迂回し、御一新以降通じた「言問い通り」の「菊坂下」から仮称「丸山通り」を通り「梨木坂」へ上ったのか、B「菊坂下」から今の「胸突き坂」こと急な本来の△キクサカを通って現・ 鳳明館(ホウメイカン)本館を右に曲がり上から出るか、C喜福寿寺門前町付近から「梨木坂」へ抜け、「梨本庵」に戻るしか無いわけだ。Dだが前「寛文11年の地図」に戻ると、男女平等センターからの前を通り、「本妙寺坂」から本妙寺谷を抜け、なんらかしかの方法で渡る手段があり、この頃から現在の「菊坂通り」角店位置。ここで現在の「菊坂通り」角店、本妙寺門前下辺りからの道を通り、楽に一もと(本)の大きな梨の木がある庵に戻れるからである。

つまり、当初は現在の菊坂「蕎麦 中村屋」から「長泉寺門前」の前を通り「梨木坂」に中程に達するには、正保地図にあるように、太田道灌の境の川に阻まれて、弓町方面から庵に帰るには遠回りをするしか方法がなかった。そして「本郷薬師」が「眞光寺」の前、通りを隔てた日蔭町寄りにあった寛文頃にはもう、本妙寺谷の道が描かれており、梨木坂への道は本妙寺谷坂を降り、丸山通に抜ける道が存在していたことになる。さらに遡り狭めていきたいのなら、筑波大学附属図書館の1658(萬治元)年の地図を閲覧すると、既に繋がっている。そして復刻版として発売された明暦大火後の「明暦地図」を見たら、男女平等センターの前を通り「本妙寺坂」から本妙寺谷を抜け、丸山通りなる、菊坂通りを横切り「本妙寺門前坂」までは明暦の大火以後は、避難路確保の為か。開通していたからだ。

■纏め 正保から明暦の間に本妙寺谷は通じたようだ。 この間の地図や文献がさらに今後出て来ることを待つことにしたい。

■丸山通りについて・・※また、東大下水の説明の中に一、町内下水東側中程軒下より西のほうへ横切「丸山通り」へ落ち込み候・・・・・・とあり下道を暗に示しているのだろうか。

※尚、梨木坂 戸田茂睡の居住地の項に・・「梨木坂」は菊坂より「丸山通り」なり。ともある。

●元に戻り戸田茂睡翁が、1670(寛文10)年庚戌 「黒田勘解由」ヨリ買い入れた森川町の本多藩邸か、浅草の藩邸に勤めていたのなら、特に御弓町からの道が通じていなくてもあまり不便を感じないわけで、同藩の神田「柳原屋敷」や「登城関係」、また八丁堀等の友人宅等への行き帰りの際に不便を感じたのでは・・とは思う。 さて、昨年復刻販売された「明暦地圖」及び「元禄地図」等「御府内沿革圖書」の圖で判るように、本妙寺谷が通じていることから、なんら「梨木坂」への道が南側から帰るのに不便を感じないのではないだろうか。それなのに「戸田茂睡翁」は御富代記に文京区教育委員会指摘のように挿入という形にしろあの一文を載せているのだ。 変だと思わないだろうか、そこで今一度、考る・・・。

◆元禄九年仙川(千川)上水が開通した年「戸田茂睡翁」も1696(元禄九)年秋には68歳となり、住居も「本郷お弓町とみ坂本明(妙)寺へ出る三つ辻の屋敷へうつりて草庵をむすぶ」(石川新之丞という御弓町同心御屋敷に作りたる庵)とある。この年菊坂に町屋が許され、当町「仁兵衛」他15名が道奉行「武島次郎左衛門」「伊勢平八郎」に、ナダレ地の造成利用申請をした。翌年工事を俊成。そして・・・

茂1697(元禄10)年『御富代記』に「一頃日、丸山与力の下屋敷上り、本郷四丁目の水落流付かハり、弓町より梨木坂へ之道開」となる。 あなたは、これをどう感じ。 そしてどう考えるだろうか。 

与太郎は、「本郷四丁目の水落流付かハり」は、昔、大田領の境となった川、「東大下水」の事を指していると思う。これは皆さんと同じだろうと思う。

では、弓町より梨木坂へ之道開 はどう考えるか?、 

@東大下水に沿って今の下道が出来たと考えるのか・・。 

自分が「梨木坂」に住んでいたら・・と考える。当時着物を着ていた人間が大小(刀)を腰に、高級な階段を利用するような小幅な摺り足歩きをして歩く時、少しでも平らかな「現・菊坂通り」を避け、大下水沿いの狭い大八車すら通りにくい道を、好んで通ったであろうか。確かに地図で見ると平面であるが、現地を歩けば判ると思う「海進期」には海の入り江だったこの下道は「本妙寺谷」から水の流れとともにかなり下ることが判ると思う。 そして暫く、底地を歩き「梨木坂」付近まで辿り、わざわざまた階段を上がるこの下道が便利な道なのだろうか。否、下道沿いの大雪崩地に住む下級武士や伊賀者は当然利用したろうが、茂睡にとっては不便そのものであろう。 たとえ「眞砂町名」になる以前は、本郷二丁目ではないのに、本郷四丁目交番裏の「眞光寺」辺りもそして、「常盤会」のあった炭団坂上辺り一帯も、「御弓町」と呼ばれていた。

昔、元禄16年の水戸様火事に見舞われる以前。●1673-1681延宝年中「本妙寺坂」降り口から鐙坂上「水野右衛門屋敷」横に繋がる「御先手組大縄地」敷地内を通る長い、長〜い「崖沿いに一本の道」があった、その地に住む者達の生活廃水は、「本妙寺坂」や、「鐙坂」の側溝を通り、谷へと下っていったことだろう。しかし面積が広い為に、二箇所だけでは処理できない汚水が、地形の高低に従い現在の欄干のある辺りから流れ出した。または天水が一筋の流れとなって台地の下、本郷谷へと流れ出て川へ「後の東大下水」へと合流したのではないだろうか。そして普段(天気の良い時)は、水無し川の状態になり、降り易そうな自然の溝だけが残る。

1696(元禄九)年頃町屋が開けいつの間にか住人が遠回りをしないで済むこの近道を猫犬のような獣が通っているのを発見したか。最初は当時の子供達が遊びに利用していたのかもしれない。しかし、この急な坂道は、段々と踏みしめられ。さらに道らしくなってきていたのではないだろうか。当初は雨が降れば小さい流れの道と化し排水の道となったことであろう。この崖は御存知の通り「大雪崩地」、普段から谷間ゆえに雨が降ればさらに滑る。そこに出来た急な道ゆえ言い伝えの一つ「炭団坂」と名がついたのかもしれない。 翌1697(元禄10)年、寛文時代、番所のあった角店辺りから「道作り屋敷」が俊成。その際、地元住人にとって近道となった「獣道」に少し手を加えた簡単な道が出来たのを喜び、弓町より梨木坂へ之道開と茂睡翁が他人にとっては些細な事かも知れませんが、その出来事を記録したのではないのでしょうか。

何故ならば、茂睡翁にとって「梨木坂」の梨本の隠家に住んでいたのは別資料によると。元禄三年であり、元禄六年には、本所新堀の南二つ目の橋の近所や本所の裏かしこに、元禄九年秋まで住まいし、その後住み慣れた、隠家のあった本郷にまた戻って来た時期だからです。 また戻った地が、梨木坂では無く、近辺ということから誰か他の者がもう、住まいしていたのであろうか、同じ「梨木坂」の隠家に戻れなかったわけで、庵を開いた「梨木坂」の梨本の隠家は戸田茂睡にとって常に「心の拠り所」であり、心は常に隠家に住まいしていたのではないでしょうか。

それ故、住んでいないのにも係わらず常々あればなあと。思っていた近道が出来たのを心から喜び態々「弓町より梨木坂へ之道開と記載又は挿入となったのでは・・・。

■『不求橋』  さて、度々触れるが<この橋の由来は茂睡翁に関係する。その橋が以前書いた『本妙寺』 本妙寺坂 を下り 本妙谷 で、わかるように1695(元禄八)年頃の状況として、ここいらは石川啄木で知られている「喜之床」近くの「現・ファイヤーハウス」の位置に住んでいた御天医「法眼古庵余語先生が3/19日に卒し、また悪法の「生類憐みの令」により10/25、江戸辻番の八兵衛、溝の中の小犬を母犬の目につき易いようにと、離れた屋敷際へ置いたのを「捨てた」とみなされ獄門にされたと云う、当然戸田茂睡翁もこれらのニュースを瓦版なり、噂で知っていたと思う。 翌年、茂1696(元禄九)年秋には68歳を迎え住まいも「本郷お弓町とみ坂本明(妙)寺へ出る三つ辻の屋敷へうつりて草庵をむすぶ」(石川新之丞という御弓町同心御屋敷に作りたる庵)とあり、「梨木坂」からは住まいを移していることが判明している。

・菊坂に町屋が許され、当町「仁兵衛」他15名が道奉行「武島次郎左衛門」「伊勢平八郎」にナダレ地の造成利用申請、翌年工事を俊成。雪崩地延長205間,奥行 3〜4間半の長〜い長〜い、一つの長屋が完成する。 そこで登場するのが『戸田茂睡と炭団坂』である。以前文中で、約束した通り、茂睡翁が「その頃森川宿の本多邸内に住んでいたのか、開通した事に興味を示し記述してあるところから、梨の木坂にもう住んでいたのか、または以前住んでいたのでこの一件を記録したのかは、まだ整理していないので判らない。調べが進んだら追って、報告しよう。」と云う約束をここに果たして置く。※尚、調べに当たり御協力頂いた「関係各者・関係機関の貴重な資料提供に特段の敬意を表し、また「戸田茂睡」翁の子孫「戸田正彦氏」には更に感謝申し上げる。

『炭団坂』

茂1697(元禄10)年『御当代記』に、「一頃日、丸山与力の下屋敷上り、本郷四丁目の 水落流付かハり、弓町より梨木坂へ之道開」とある。 

・茂1698(元禄11)年71歳 「梨本集」を、著述。

・道造屋敷完成 1698(元禄11)年 〜1717(享保ニ)年丙申迄・町方支配となりて本郷菊坂道造屋敷と唱え先の16名で富初所有。・「永福寺」また大火に遭う。

◎正保地図にはまだ丸山に「長泉寺」や「本妙寺」が無い、でも、正保絵図を見れば同位置に何か豪族の館か、寺のような物が枠だけ、描かれている。これはなんだ・・・

▲回答が出た。川男さんこと、之潮 コレジオで出版された寛永江戸全図が販売された、そこには正保絵図よりも数年前頃と言うのに長泉寺や本明寺が描かれていたからだ。そう云えば◆1627(寛永四年)正月に現小石川後楽園位置に居住していた「蒲生中務大輔忠郷(がもうなかつかさたいゆうたださと)卒去、●本 妙 寺は1636(寛永13)年丙子 類火ミ(東京史29-467)全焼?。水戸藩へ幕府より小石川後楽園藩邸給地拡大拝領にあたり檀家の「久世大和守広之(28)従五位下大和守」の尽力により本郷丸山に替地を受けた。ほぼ同時に■長泉寺(ちょうせんじ)も移動した。これは当時、長泉寺の住職と水戸光圀との特別な関係があった事が要因の一つとして考えられるようだ。また「牛神社」近く現・「安藤坂」(網干坂)近くの小石川金杉にあったこともその一つであるようだ。

閑話休題、さて丸塚であるが・・・以前から資料等を探していた。何せ、「梨木坂」の上辺りには丸山古墳の一つが在ったと伝えがあるからである。わかったのは、以前菊坂には・・・

■御府内備考巻之38 駒込の参P150 (菊坂より移転)天榮寺門前 一、往古駒込村百姓地に有之候處、同寺本郷菊坂の臺より萬治三子年引地相成、富時の地所拝領仕、其砌(ソノミギリ)より門前町屋御免被成下、寺社御奉行御支配の處、其後延享二丑年十二月中町奉行御支配に相成候、永代門前町屋に御座候、

■新撰東京名所圖會P136●寺院●天栄寺(テンエイジ)現在は駒込浅嘉町49番地にあり。「駒込・土物店発祥の地石碑が近くにある寺」と言った方が判りやすいだろうか。この寺は地久山法蔵院と號す、浄土宗京都知恩院末なり、初の名は天栄寺、僧天輪(俗名 多門主善重吉、大阪の陣の武功あり、寛永二年寂)の開山なり、元和三年、本郷菊坂に創し萬治三年今の地に移る。

■本郷區史 P47 丸山天栄寺門前 ・丸山天栄寺門前 「天栄寺」は天和三年本郷丸山に開創せるものであるが、越えて八年に門前町屋の起立を見るに至った、『文政寺社書上』に云う。 天栄寺○中略 一、門前町屋拾軒 小間六拾九間四尺、境内地面ひずみ有之、致繪圖間敷書付有、本郷丸山において門前起立は元和八壬戌年也。 とある。まだまだ謎は広がってゆく。                                                                        H200103 与 (梨木紫雲)