◆明治四十三年(一九一〇年)の出来事。

.魯譟遮太韻地球に大接近した。

■昂14日東京麹町・大橋新太郎邸において、熊本の御船千鶴子さんの千里眼テストを公に、東京帝国大学

助教授・福来友吉博士たちが行い、実験に立ち会った。当時ちょつとした千里眼ブームがあった世相である。

NΨ海瞭野熊蔵大尉により単葉飛行機が初めての飛行に成功し。

て邏紡舂Δ砲話妓‖發出帆している。

デ魍鬚篁暗鎚験悗料牢の年でもあった。

千代は明治四十三年三月、 岩国尋常小学校を学業全甲で卒業し同年四月、玖珂郡立岩国高等女学校、現・

岩国高等学校に進んだ。

Ч島湾での潜水艇の沈没事故で殉職し、後に「沈勇」としてたたえられた旧日本海軍大尉、佐久間勉艇長=

当時(30 ...  https://www2u.biglobe.ne.jp/~horizon/dream3.htm

 ※佐久間艇長については、夏目漱石の手になる「文藝とヒロイック」という見事なエッセイがある。訓練中

の潜水艇が沈没して、艇長以下十四人が殉職という悲痛な事故が起ったのは、明治四十三年広島湾での潜水艇

の沈没事故。

 

│^旛沼の話?・庄九郎池出来る

本埜第二小学校で古老の人の話を集めた小冊子をつくりました、その中に庄九郎池は明治四十三年の洪水で出

来たのだと書いてあります。 成る程、第2表「利根川水系の主な洪水」を見ると明治四十三年八月に大きな

洪水が 記されています。このときにできた桜土手の決壊が今の庄九郎池になったということです。

 

◆多摩川洪水

明治四十三年 1910.8.10 関東地方に豪雨が続き、荒川、利根川が氾濫、南足立郡の全域が浸水。

この水害により、荒川放水路新削の議おこる 明治四十三年八月の水害時の絵葉書には、本堂の上に避難して

いる人達が写し出されています。浅草寺の本堂は近隣住民の避難場所にもなっていたのでしょうね、今もしも

昨夜のような台風で隅田川が氾濫したとしたら、浅草寺さんはいつも通りに午後5時で門を閉ざしてしまうん

でしょうかね・・・。明治四十三 1910年 八月大雨で下谷区六千戸、浅草区一万四千戸が浸水する

 

明治四十三年八月十日夜十時 多摩川の天王木村の堤防が百二十間に亙り決壊する地元の天王木村 高畑村 

町屋村 道塚村の農民は、総出で修理にあたる。決壊個所は今の古川薬師寺裏、西六郷一丁目附近。工事請負

人は当時道塚小敷地に居住していた中務政五郎さんという人(明治時代より多摩川の砂利を□□□ていた。)

 出品□道塚町五〇 長谷川桐之助氏(過去の文献を転載。□は判読不明)  採取し?

 

■多摩川洪水・治水年表

1878(明治11)年 六郷橋流出、羽田村ほか25ヵ村で水害

1894(明治27)年 六郷多摩川堤防内で48戸床上浸水、作物被害

1907(明治40)年 大洪水、各所で堤防決壊

1910(明治43)年 多摩川下流部、大水害。六郷川堤防決壊

 

菊富士ホテルより長泉寺山門寄り、崖崩れアリ(島根氏談/小山氏覚えアリ)

当時島根氏は菊富士ホテル食堂位置真向かいに居住、文士が食堂にいるのをヨク見ていたそうだ。

尚、島根氏及び鈴木さん、岩崎屋さんは、坂口安吾の居住した菊富士ホテルの塔(以前は子供のお仕置き場)を

覚えておられた。

                  

                  

 

 

 

 (羽根田夫妻)

記念碑左横の庭には昔、本妙寺山門横より崖沿道あり。 右上の赤い車の位置には稲荷社が在った。

(府内備考)。尚是非、記念碑横の黒い柱に注目して欲しい、発起人はあの「魚よし」の徳さんである。

典拠元は ●「本郷菊富士ホテル」近藤富枝著  ●「鬼の宿帖」羽根田 武夫著 氏は三男坊である。

 

 

 

 

本郷 (1)https://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/musasinobunngakusannpo/honngou/honngou.htm   安島氏

          https://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/musasinobunngakusannpo/sakagutianngo/sakagututoyada.htm  

              絵葉書神田骨董会館にて       当方も以前購入所有して       いたが現在は不明。

              出会えるのを楽しみにし       ている。

菊富士ホテル開業当時のホテル全景図大正3年頃             林 順信氏所有

『赤心館』

                                  

 

 

 

 『菊富士ホテル』の中から玄関を出て左『旧館菊富士楼』隣は「石川啄木と金田一京介」『赤心館』です。

菊富士の玄関のスタイルが何度か変わったことが読み取れます。右上写真二階に丁度、

金田一京助と土岐善麿(左)の姿が見えます。S0801頃。道の正面はアルプス鉱泉【菊の湯】

でした。角を曲がると、鴎外の『伊沢蘭軒』に出て来る『長泉寺』裏門へとなります。

          写真は※新潮日本文学アルバムからの典拠で、上がP66・左下がP77からの複写です。

 

 

 

 

 

さて『赤心館』はオーナーが変わり、栄嶋氏の所有『清光荘』に変わり。その後、廃業となり

昭和12年頃には、空地となっていました。現在、柵の下は見下ろすように掘られていますが

当時は、下左写真の通り、平らな地続きになっておりましたので、御注意下さい。

尚『清光荘』のお嬢さんで、今もお近くにお住まいの方にお聴きしたお話ですが。

子供の時分奥にはもう、稲荷社は無く平屋の家があり誰か人が住んでいたそうです。 そして火事になった事があったとお話下さいました。よく菊富士ホテルにも回覧板を持って行かれたそうで菊富士ホテルに出入していたなんて、羨ましい次第ですね。勿論、あの東京大空襲があった昭和20年3月9/10以前の話です。

  <「本妙寺の面影」■『本妙寺跡』を尋ねて  ―菊坂の与太郎シリーズ―  予定稿より>

 

■丸山福山町の家

 丸山福山町の家は玄関を入ると真っすぐ幅三尺の廊下が奥まで通り、その右側に六畳が二間、左側には四畳半が一間、台所は玄関左側に少し突き出してしつらえてあった。玄関戸の上半分には色ガラスがはめ込まれていたという。本郷西片町の崖が家のすぐ裏手に追っていて、その崖から滲み出す汚水が家の南側に三坪ほどの池になっていた。このことから、池に因んで丸山福山町での日記は『水の上』と命名されている。 一葉の死去から七年後のこの家の写真が残っているが、そこ

には偶然そうとは知らず入居した、当時一高生だった

森田草平の姿も一緒に写っていて興味深い。しかしこの家は明治四十三年、台風による崖崩れで壊れたという。生前の森田草平から直接その頃の話を聞き、自身の母親も晩年の一葉から直接歌をみてもらったという村上一郎は次のようなエピソードを書いている。・・・

P98に「.一葉 終焉の地」

 

 

●新潮日本文学アルバム 樋口一葉 では

 『一葉はこの家で生涯最後の二年半あまりをすごした。この丸山福山町の家の間取は、色ガラスをはめこんだ玄関の戸をあけると方三尺の沓ぬぎの土間。そこから幅三尺の板の間が通り、その右側に六畳が二間、左側に四畳半が一間あった。他に玄関の左側にさしかけのようになった台所が突き出ていた。

 

 一葉の机が置かれていたのは、入口に近い六畳間で、縁先から南手にあたって三坪ほどの「ささやかなる池」があった。家の裏手に立ちはだかる本郷西方町の崖から浸み出す清水をたたえていたこの池にちなんで、丸山福山町時代の日記が「水の上」と命名されたことはよく知られているとおりである。一葉は執筆に疲れると、手すりにもたれながら、この池の面に眺め入ることがあったという。』(p81)と紹介しています。

 

●文京区教育委員会「ぶんきょう ゆかりの 樋口一葉」では

 『・・・東側は西片町の急な崖で、その崖下から湧水が流れて、四坪ほどの瓢箪池がある。障子をあけると、一葉の居間の文机から眺められた。終焉の地での明治二十七年六月四日からの日記の表題は“水の上”とあるが、これはこの池からとったのであろう。

 

 西側の玄関を出たところに門があり、左側の家は鈴木亭という銘酒屋であった。ここが『にごりえ』の菊の井のお力の店のモデルになった。この家は、明治四十三年の台風で崖がくずれ跡かたもなくなった。

丸山福山町4番地の家は裏側の阿部屋敷の崖に接するように建っていた。

 

 

 

 

 

   一葉が住んだ福山町の家の隣に崖が残っていたが、何やら工事が進められいたそうだ。(99.07.01)

崖を見て、当時を語られることが多かったため、さびしい気分になる。 と下記HPにあった。

https://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/musasinobunngakusannpo/honngou/itiyou.htm

ということから、道が崩れたきっかけになった事が想像出来る。

では、いつ頃から存在した道なのであろう・・・?菊富士ホテルの経過を辿ると。

・菊富士楼が明治29年

・三層地図の明治期制作の基礎が明治40年(1907)年前後の地勢を実測で復元とある。

・菊富士ホテルが大正3年に建設。主を失い妻に代替わりしかし時勢を考え 昭和19年3月、旭電化に22

〜3万で土地と共に売却。後、社員寮としてホテルは使用されるが運命のS20年03/9〜10の東京大空襲にて

本郷三丁目よりの延焼飛び火で惜しくも炎上、菊坂通り方向にその巨船は最初はゆっくり、しかし次第にスピードを増しまさに最後は一気に沈むかのように、崩れ落ちていったそうである。老人子供は命からがら本郷館

下防空壕に避難。男女を問わず大人は勇敢にも消火に努めたが、焼夷弾による火の手は強かった。H180604