■本郷の回覧板

昔空間散歩の薦め

本郷 菊坂の与太郎シリーズ

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  第二回 Bコース 

   ■基点「本郷三丁目交差点」シリーズ案内

楠木・弓町本郷教会・女子美弓町校舎コース

さて、「ふるさと歴史館」前で、)槎寺谷界隈コースの方達と別れ、楠の木の精霊に呼び戻された

私達一行は、この後、春日通りへと歩を向けてまいりましょう。

さっそくですが「ふるさと歴史館」正面を背に前の道。左が「旧坂口邸」で今は映像関係の会社が入

っております。右が「橋爪産婦人科医院」でした。ここは、「燕楽軒」そっくりな造りの白い建物が昔は

あったそうです。ぐるっと右に半周りしますと写真にあるような「手水石」がありますが古い物です。

 これは「塚崎 家政婦紹介所」がここにあった頃、和風引き戸玄関の

 脇にあっ代物です。反対の「栄亀庵」のそばには、ベージュ色に塗られ

 た公衆電話Boxもありました。 首から上しか見えないタイプで、ドア

のノブが無く、取っ手の部分が円く大きく抜かれており、ゴムでモールドしてあったタイプです。

中が見えにくい事をいい事に不貞の輩がトイレ代わりに使用することが

あるとかで、一時社会問題になり、モラルの低下が嘆かれた後、いつの

間にか透き通ったタイプに変わっていました。では、通りに出て春日通りを、

渡りましょう。中央分離帯までが拡張前の道幅で、都電16系の線路は、何故か春日通の真ん中では

なく、この楠木側に寄っていました。右側の横断歩道を渡った角が、道路拡張工事中まだ10円玉を

入れる小型の赤い公衆電話があった「細貝パン店」で

バリオホールの行き方を示す紙が貼られていました。

【表題写真】左斜め前方にあるのが屋根つき駐車場

ですがこれも昔のまんまです。その隣教会寄りに、

【表題写真∪个硫が長い事ありました。

そして、以前紹介した旧春日通の道幅を保っている道が

あります。 さて角の【表題写真】の教会が・・・

●日本基督教団 弓町本郷教会です

熊本バンド、明治の伝道者として名高い髭の「海老名弾正」先生の創設です。「新人」でも有名で

すが。後、同志社総長も勤めます。奥様の美屋婦人(父・横井小楠)は「新女界」に係わり、そして

「矯風会」へと繋がって行きました。

教会はプロテスタント教会で大正に教会員の中村鎮(ナカムラマモル)によって設計され建てられた物

でさすが、震災後に建てた代物、壁の厚さが30センチ以上ありエアコン用の穴一つ開けるのも結構

苦労します。

一階部分の大きなブロックと、その上方の小さなブロック(スクラッチタイル)があります、KK氏に

お聞きしました話では、大きなブロックはなんとこの現場で固めた物で、一つ一つ乾きを遅らせる

為、濡れたムシロを掛け芯からゆっくり固まるように丁寧な仕事、後世へ確かな物を残そうとする

配慮がされ、神の家(祈りの家)教会に対する、中村鎮兄と当時の信徒達の姿勢が窺われます。

※中村鎮兄の追加情報 実は『文京ふるさと歴史館』で平成19年2月10日(土)〜3月18日(日)に

開催予定の■企画展「文京・まち再発見2−近代建築 街角の造形デザイン−」展示物中に第2部

建築界の新しい動きの中で●大切な書物を守る「鎮ブロック」の倉「佐々木信綱邸萬葉蔵」1933年

中村 鎮と題した物が出展予定されております。佐々木先生は、親子代々の歌学者で「梨木坂」の

項で紹介した『戸田茂睡翁』を世に改めて紹介されました。彼は帝国大学で教鞭を執りまた我が国

の国学の宝である書物を収集研究し「萬葉大辞典」を初め、数多くの書物を残してくれた人物です.

それら貴重な書物資料を守った鎮ブロックの蔵、信仰の大先輩「中村鎮」兄が関わっていたのでした。

この機会に是非ご覧下さい。 (H190125追記)       詳しくは→  

●「白骨の進軍」で有名な 田崎健作牧師時代は戦争中でした。

田崎牧師時代の戦争中には、大勢の信徒を始め、御近所の焼け出された方を多数収容し、戦火

から守ってくれた教会堂です。当時は地下の斜めに降りて曲がる幼稚園倉庫や、暖房用コークス

置き場の階段途中ロフトにも一家族が住むというような利用をし、大勢の人達が一つの家族の

ように助け合って、住んでいたそうです。

●弓町本郷教会の始まり・・

海老名弾正が「湯島の講義所」をM19年に設け、そこを皮切りに布教活動を開始しました、そこ

は神田明神脇の旗本屋敷の一部を借りたようで、聖橋と都電王子線との交差地点で、交番の近

くのようです。そこは、雨漏りもひどく、人数も増え手狭となったため引越しを余儀なくされ、あの

西片町の「木村熊二邸」で集会を持つようになりましたが、其の後ここも手狭となって、M20年春

には金助町・春木町・森川町と転々としたようです、でも信仰の火は消えずM20年8月、二代目

「横井時雄牧師」が本郷教会に赴任してから待望の会堂を持ったのが、M24年4月25日:帝大

教授辰野博士の設計により建てられた豪壮な煉瓦造二階ギャラリー附きの大会堂(写真許可申

請中)です。 

この献堂された東竹町の「本郷教会会堂」が「弓町本郷教会」会堂の前進です。其の後「横井氏」

から初代「海老名弾正」先生が戻られ三代目牧師となり教会体制の建て直しをしていましたM31

年の春、春木町二丁目より起こった大火災の延焼でせっかくの会堂も、伽藍と化したそうです。

●春木町二丁目からの火事

この火事は丁度、別の火事で折り悪く上野方面に出動していた本郷消防の、消防ポンブ隊の関

係や、ここが高台地帯のため水の便が悪く、消火しにくかったようで十分な消火活動が当時出来

なかったようです。そして1.478戸を焼くという大火になりました。

この火事で会堂裏の、海老名牧師の寓居も、類焼してしまいました。

●火災後の東竹町「本郷教会会堂」は・・

建物はその後「渡辺裁縫女学校(現在の東京家政大学)」の手に渡りました。其の時、横井氏は、

自身所有の邸宅を供した。また横井名義であった会堂も、使用に委かせていたようです。

火災にあった時、横井邸は幸いにして保険に入っていたものの、其の資金は数ヶ月の教会資金

となったそうだ、会堂は保険にはいっていなかったので、土地を売却し、その代金は後に建てる

ことになる壱岐殿坂新会堂建設資金の大部分となったとの話が伝わっている。

さて「壱岐殿坂の会堂」が見つかる迄の流浪時期には、色々な場所をお借りしたようだ。最初に

真砂小裏、玉川一郎先生の生家近く「菊坂の道」途中の窪地、井戸の近くに在った『日本基督 

教会堂』で空いている午後二時から、弓町本郷の礼拝を筋金入りの信仰を持つ先達は、真摯

に守ったそうです。

教会員には信徒として初代小林富次郎氏を初め歴代のライオン油脂の関係者も多く、中央会堂

にも負けない位、有名な人材を世に輩出しております。また海老名美屋の葬儀には、矯風会の

会頭であったガントレット恒(山田耕作の姉)が弔辞を述べた記録も残っておりました。

●オルガン

ガントレットといえば秋吉台で、天皇を御案内して鍾乳洞を世に紹介した事と意外に知られていま

せんがオルガンでも有名です。弓町本郷教会のオルガンは、なんと二台目です。六代目の牧師、

田崎健作先生が、高まる信徒の讃美の歌に、是非伴奏用のオルガンをと、祈り求めておりました。

米国に洋行していた当教会の信徒が、オルガンを求めていることを知り、ユニオンチャーチで今度

オルガンを新しくすることになり古い方をどうぞ、と連絡が来たそうです。 そこで足踏オルガンを

急遽受け取りに渡米した田崎先生が驚いた、な・なんと待っていたのはオルガンはオルガンでも

パイプオルガンであったそうな。足踏み式のオルガンのつもりがパイプオルガンそりゃあ、驚きま

すがな〜・当時のしきたりに従って向こうでは1ドルで手に入れたそうですが、その分解・撤去費

用・港までの運送費用・税関費用・教会までの運送費用と、急遽日本でも募金を募ったりと、てん

てこ舞いをされたようです。瓢箪から駒ではなく、瓢箪からパイプオルガンというわけだったそうで

す。 これは機械部分の方式が、ニューマチック方式と言って空気と電磁弁を、利用した構造にな

っており、音色はロマンチックタイプオルガンでしたそして立派な三段鍵盤の演奏台(コンソール)

と、足鍵盤は扇型傾斜附きの32鍵でペダルは弾き易かったです。

 組立てには、教会員でもある、日本ピアノ調律師協会の審査員をしておりました故・白水道敏氏

が中心になって組立て、頼貞オルガンで育った「富永先生」や、当時三越のシアターオルガンの

奏者、木岡英三郎氏も来て下さり、力を合わせて組立てたと白水氏より口伝されております。氏

は立教出身でなんと、あのガントレット先生に、偶然にも中学時代、英語を教わっていたそうです。

特筆すべきは、このオルガンを永年保守にあたり毎土曜の午後、老朽化しきっていたオルガン

のご機嫌を診にいらしていました。もう老朽化しきっていたオルガンでしたから方々に故障があり

ましたが。翌日の主日礼拝を少しでも良い讃美にしようとご機嫌を診ていらっしゃいました。礼拝

堂の正面右には演奏台、左に濃い茶色のニスで塗られた、壁面と同色の板で囲む大きなパイプ

室があり、その一枚を外すと強弱(スウェル)シャッターの付いた大型風箱(所々ガラスがはめ込

んであって弁の作動状態が見える方式)であった。脇に小さな小さなドアがあり、空気抜き弁付き

の減圧室を通って送風中の風箱に潜り込みながら、テストをしたり、痛んだ皮を張り替えたりバネ

を押し広げたり、ハンダをしたり、接点を磨いたり、パイプの調律をしたりと、それは熱心にしてお

られました。きっと神様への感謝と、確かな信仰がなければ、続かなかったことでしょう。

●二代目のオルガン

二代目のオルガンは、ドイツ製のハイスラーというメーカーのオルガンで、クロダオルガンさんの

仲介で、ドイツからビルダーの人が来られ、作業が始まりました。当教会のオルガニストでもあり

指揮者でもある音楽家。玉川大の富永先生をはじめ、群馬交響楽団と関係のある二俣先生らの

考えを中心に他のオルガニストと相談し音栓を選択した物です。 与太郎も、作業初日からいい

機会とばかりに参加しました。今は、毎週の礼拝を初めベスパーサービスや昼の憩いなどと多く

の機会に演奏されています。 外に流れ出てくる音を聞くと、今日は誰々が弾きに来ているなとか

聞いたことのない弾き方をしているのは誰なんだろう。と、思わず礼拝堂を覘きに行ってしまいた

くなる与太郎です・・・。

●大楠の木

教会前の、東急アルス本郷には、昔ディズニーランドのような【表題写真】洋館があり、どこぞ

の外国人学校だったか大使館だったかが、あったような気がします。中山さんの家ですが、窓に

木枠の入ったクラシックな洋館となり、楠木亭としてフランス料理を提供しておりました。江戸時代

は「甲斐庄喜右衛門」という旗本の屋敷跡で、【表題写真】ド分近世では和+欧州洋館でした。

ここは大きな楠の木で、地上1.5メートルのところでも幹周りが8.5mもあると表示してありました。

そうです、 楠の木といえば、やはり思い浮ぶのは「楠木正成」ひよっとすると何か関係がある

のでは・・などと期待してしまうのではないでしょうか。

ピンポン!ハイその通りです。 家康の寵愛により、ここに屋敷を与えられ「楠木正成」の

子孫が住んでいたという、経緯があります。

●カラスの話

鳥寄せ名人が来てある日、鳥寄せの口笛を鳴らした時のことです。この楠の木を中心に周りの

ビルというビルの屋上の縁、びっしり何か黒いんです、どこにそんなに居たんだろうと思うぐらい

いるんです。実は、遠くは(二中)今の本郷台中地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目駅近くの屋上辺り

までも鳥で埋まっておりました、これ、ほんとの話です。ヒッチコックの「鳥」その物でした。ギャー

ギャーうるさいの何の・・・ 

●前田貴族院議員邸(前田利鬯) まえだ としか・・利鬯は旧・加賀大聖寺の藩主。

大正9年(1920)80才卒 ここで、一枚の地図を手に入れて見て貰いたい。明治40年

一月調査、東京市本郷区全図明治40年東京郵便局発行のカラー地図である。

弓町2-1番地を拡大して見ると、大横町側に「女子美術学校」と名前が載っている、

ここの一帯が前田利鬯、旧加賀大聖寺の藩主の明治期の屋敷であった。

●女子美の「弓町校舎」発祥の地

創立者、発起人・・・横井玉子・藤田文蔵・田中晋・谷口鉄太郎から設立願いがあり、1900年(明

治33)10月30日に認可、翌1901年4月に本郷弓町2-1番地。前田貴族院議員邸(前田利鬯) の

梅林を開墾して建てられた。建物弓町校舎の写真は、外見が◆新撰東京名所圖會の中にあり

内部は女子美の関連誌に残っています。建物の建て方が変わっていて。当時物珍しい事もあり

今で言うパパラッチに配慮してか、入り口を大横丁向きにではなく、前田利鬯貴族院議員邸に向

かいあう形で建てられていたと言います。その検証をすべく当時の様子を知っている人がいない

かと尊敬する・・・「Kai-Wai 散策」のmasaさんに、昨年秋協力を依頼してある次第です。

●最初の女子美

校長は、藤田文蔵で生徒14人のスタートだったとか。そんな形で、スタートしたわけですから当然

経済的に当初より厳しく一時破綻間際になった、発起人同士で分裂し、抜けたメンバーがいる。

そして小川町近くに別の美術学校を建てようとしたらしい。だが横井玉子は祈りながら頑張った、

色々駆けずり回り沢山の人に是からの世、女子教育の必要性と、その現窮状を説いた事と思う

ここ何年間その接点を探しているが。未だに判明していない。

 只、佐藤順天堂病院当主、佐藤進院長の奥様「佐藤  静」先生がこれらに共感し、経営に乗り

出してくださり窮状は救われたとあります。でも、順天堂裏の東竹町には横井牧師(父・横井小楠)

が丁度、教会堂を建てていたこともあり、横井玉子先生はその横井時雄牧師の所にも行ったことで

あろうし、近くの病院にも煩っていたので通院していたのでは無いだろうか。?

もしくは、延焼前の本郷教会堂に「佐藤  静先生」が訪れていて知り合っていたのかも知れません。

一説には、人を介してという説もあります、がそんな横繋がりの関係の可能性も、無視できません。

ところで、女子美弓町校舎には、住所が違うもう一つの場所があります。古地図を探してる内に

住所が違っている物を見つけたのです。見間違え出なければそれはもう一本後楽園寄りの国鉄

アパートの近くでした、余りその時は気にもなりませんでしたので、あくまでも推測ですが1904年

01月 (M37) 佐藤  静が校長に就任した後、1908年10 (M41)火災の為に弓町校舎が焼失して

しまいます。そこで1909年07 (M42)女子美菊坂新校舎落成迄の間、仮校舎として使っていた物

が記録されたのではないかと思う訳です。そういえばその近くには、旧春日通と現在の春日通り

の間、三角地帯。地下鉄がトンネルから出て来る上に、錦秋高女がありました。先日その写真が

「文京・まち再発見」P85に白黒で載っていました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

提供; ※謝辞、この度郷土紹介の為ということで、写真使用の許可を頂きました。謹んで感謝致します。

 以前文京区の主催する観光写真コンクールの作品だそうです。成る程完成度が高いですね。

それは、中央に新宿方向行きの赤い丸ノ内線最後尾二車両が写っておりその上に錦秋高女の

グラウンド、左に校舎、右奥に大楠木そして・弓町本郷教会の回廊・田中商会の回廊。

錦秋校舎の上に真砂湯のエントツ、左奥に真砂小学校の屋上が見えるという物です。

丁度、地下鉄がトンネルに入り切る直前、講道館屋上から写したのではないのかと思われます。

  ※こぼれ話を一つ、小生が長年寄せて頂いているピアノのお得意様で品川に住む鈴木君代

さんという品の良いお婆さんがおられます。仕事も終わり紅茶を頂いている時、昔の事を話して

いる内にひょんなことから女子美の菊坂校舎の話になりました、そうしたら何十年も通っている

お得意さんの大奥様がなんと「佐藤  静先生」の血筋の方であり、大御婆さんの膝の上でよく

可愛がって貰ったそうです。家は駒込にあったと聞き、詳しくお尋ねすると、そこは良く見ていた

都電の駒込車庫であった。そこに佐藤家のお屋敷があったそうだ。あの広大な跡地ヒェ〜世が

世なら控えおろう・・・かな。その日は情報交換と、偶然手に入れていた佐藤高女と女子美菊坂

校舎双方が写っている俯瞰写真を記念に置いて参りました、来年お会いするのが楽しみです。 

閑話休題、さてさてそれでは、反対の大横町の角から「木之床」

の方へ抜け本妙寺に向かいましょう。

女子美の弓町校舎に別れを告げ、程よく歩くと左に見た前田邸との境

 

の壁がだいぶ傾いてきていますが向こうに抜ける途中の真ん中付近に見る事が出来ると思

います。←※(左・写真クリック)

ここら辺か゛前田貴族院議員邸(前田利鬯) まえだとしか氏の藩主邸

境のようです。さてその通りの反対右手には古い洋館が在りますが、

ここは「福士勝成邸」です、 庭に大きな石灯篭と車寄せが見えます。

ここに住んでおられた方はお医者様で、ちょっとその道(刺青イレス゛ミの

研究)で有名な先生です。なんと、人間全身の刺青標本を作ったこと

があると聞いております。

 さらに進み工事中ですが「本郷閣」があり、そして壇マンションの角を、覘くと「木瀬部屋」が

見えます。其の右手先には不審火があった「歴史教科書をつくる会」

事務所があり、左先角が教会です。戻ってここの丁字路突き当たりに

昔石川啄木が下宿「木之床」【表題写真】があり。その先一軒置いて

石造りの古ビル「田中商会」田中銅伸線屋 【表題写真】がありました。

春日通の 信号を渡り・・、

 

                       クリック→    

通りを挟んで右角に見えるのが「真砂湯」表題写真】その右隣本郷よりが、小川さんちです。

その先には「真砂裁縫学校」が在り、反対左角には「食堂」がありました、今は一階が駐車場

になっています。また、古くからの防火用水桶(コンクリート製)が、大型植木鉢として利用され

残っています。

その隣が八百屋の「武蔵屋」さん、ここに昔「ミルクホール」が

あり風呂帰り、近隣の人々が寄っていたそうです。 やっぱり腰

に手をやって飲んでいたのでしょうか・・・? 

 当時の話を聞くと、冬を除き、今で言うオープンカフェのようになっていて丸い木のテーブルが

幾つか有り、その周りに丸イスが二・三脚セットされていました、注文すると店の人が金属製

のミルク容器(牧場で見かける大きいやつ)から、ここ「真砂社」?では白いコップに小分けして

出してくれていたそうです。当時お決まりの官報も、備え付けてあったことでしょうね。

そのさらに昔、そう岩崎不動産の亡くなった先代が子供だった頃、ここらに築山があったそうです。

そうそう手前の一階が駐車場になっている処、以前は大衆食堂です。

大正時代には「三好野」というお汁粉屋だったようです。

戻って、富田屋さんの隣が真砂町の和菓子老舗のお店です。

先代から受け継いだ技法で、練り切りの技を使い季節の先取りをさせてくれます。

ここのご主人は歴史にも目が開けている方で「真砂遺跡」や旧「真砂小学校」の膨大な記録写真、近隣の昔の情報もお持ちです。「Kai-Wai 散策」で有名なmasaさんに紹介していただきました。  皆様も、お帰りに是非お立ち寄り下さいませ。散策の疲れが癒され、お土産も手に入りますよ〜

この情報も古くなりました。→(※追加情報 最近、富田屋さんが元・佐々木米店さん位置に移動しました。H22現在は、富田屋さんが引越され、中国のお茶や毛筆教室になったようです。 H23追加それもまた無くなり現在は空室、むさしやさんのお花が置かれております。)

 そのまま歩いて行きますとみどり文具店があったとの古地図情報です、秦畳店の入っている

ここは三軒長屋でしょうか、その昔の風情を今に伝えます。

その先は真砂医院の先生のお宅です。今、丁度建築工事中ですね。

ここから先は●「小笠原佐渡之守屋敷跡」のレポートにバトンタッチいた

しましょう御静聴、誠にありがとうございました。

 ■ 1'stUP 20060104 / LastUP 20061016

 (2004.10/10〜2007.01/28) …120周年記念表題写真等許可追加)

                                    お静かに・・    菊坂の与太郎

 ■参考文献引用資料。

弓町本郷教会50年史・弓町本郷教会80年史・弓町本郷教会100年史

同・弓町本郷幼稚園のあゆみ(昭和51年度版)

文京・まち再発見 文京ふるさと歴史館編集 文京区教育委員会発行

「大正の子・本郷の子」著 玉川一郎氏・他

・弓町本郷教会教会員・各町内の古老の皆様よりの情報+資料等

◎紙面を借りて御協力、心より感謝致します。 

※尚、著作権等、放棄しておりませんので御注意を。与  

最終UP H191117 佐藤 志津→ 静へ修正 

典拠元:昭和8年4/10 佐藤家・先祖祭にあたりて「藤のゆかり」

明治31年12   真砂町會    明治34年4月 訂正  林 喜太郎 ・大瀧 潤家