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菊富士ホテル建設予定地南側より長泉寺山門寄り、崖崩れアリ(島根氏談/小山氏覚えアリ)島根氏は菊富士ホテル食堂位置下の真向かいに居住、文士が食堂にいるのをヨク見ていたそうだ。尚、島根氏及び鈴木さん、岩崎屋さんらは、坂口安吾の居住した菊富士ホテルの塔(以前は子供のお仕置き場)を覚えておられる。 (羽根田夫妻)記念碑左横の庭には昔、本妙寺山門横より崖沿道あり。 右上の赤い車の位置には稲荷社が在った。(御府内寺社備考)。尚是非、記念碑横の黒い柱に注目して欲しい、発起人はあの「魚よし」の徳さんである。 典拠元は ●「本郷菊富士ホテル」近藤富枝著 ●「鬼の宿帖」羽根田 武夫著 氏は三男坊である。 本郷 (1)https://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/musasinobunngakusannpo/honngou/honngou.htm 安島氏 https://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/musasinobunngakusannpo/sakagutianngo/sakagututoyada.htm 絵葉書神田骨董会館にて当方も以前購入所有していたが現在は不明。 出会えるのを楽しみにしている。 菊富士ホテル開業当時のホテル全景図大正3年頃 林 順信氏所有 『赤心館』 『菊富士ホテル』の中から玄関を出て左『旧館菊富士楼』隣は「石川啄木と金田一京介」『赤心館』です。 菊富士の玄関のスタイルが何度か変わったことが読み取れます。右上写真二階に丁度、 金田一京助と土岐善麿(左)の姿が見えます。S0801頃。道の正面はアルプス鉱泉【菊の湯】 でした。角を曲がると、鴎外の『伊沢蘭軒』に出て来る『長泉寺』裏門へとなります。 写真は※新潮日本文学アルバムからの典拠で、上がP66・左下がP77からの複写です。 さて『赤心館』はオーナーが変わり、栄嶋氏の所有『清光荘』に変わり。その後、廃業となり 昭和12年頃には、空地となっていました。その後S27年頃の地図には新盛堂KKが在り現在は、柵の下は見下ろすように掘られていますオルガノですが当時は、下左写真の通り、平らな地続きになっておりましたので、御注意下さい。 尚『清光荘』のお嬢さんで、今もお近くにお住まいの方にお聴きしたお話ですが。 子供の時分奥にはもう、稲荷社は無く平屋の家があり誰か人が住んでいたそうです。 そして火事になった事があったとお話下さいました。よく菊富士ホテルにも回覧板を持って行かれたそうで菊富士ホテルに出入していたなんて、羨ましい次第ですね。勿論、あの東京大空襲があった昭和20年3月9/10以前の話です。 <「本妙寺の面影」■『本妙寺跡』を尋ねて ―菊坂の与太郎シリーズ― 予定稿より>
菊富士ホテルの経過を辿ると。・菊富士楼が明治29年 ・三層地図の明治期制作の基礎が明治40年(1907)年前後の地勢を実測で復元とある。 ・菊富士ホテルが大正3年に建設。主を失い妻に代替わりしかし時勢を考え昭和19年3月、旭電化に22〜3万で土地と共に売却。後、社員寮としてホテルは使用されるが運命のS20年03/9〜10の東京大空襲にて本郷三丁目よりの延焼飛び火で惜しくも炎上、菊坂通り方向にその巨船は最初はゆっくり、しかし次第にスピードを増しまさに最後は一気に沈むかのように、崩れ落ちていったそうである。老人子供は命からがら「森川町の本郷館」下防空壕に避難。男女を問わず大人は勇敢にも消火に努めたが、焼夷弾による火の手は強かった。 H180604 |