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H180925与 舊加賀様のお屋敷も黄色い絨毯で被われ、心字池の畔には紅葉がちらほらと見られるようになりました。三日月も満月になるように時が満ち筆を執ることに致します。 さて元禄九(1696)年といえば、江戸大川に永代橋が掛かった年ですが、我が『菊坂界隈』が町屋として開かれた年でもあります。ここで、御存知の方も多い事とは存じ上げますが復習の意味で文政◆「江戸町細見」P122を紐解くことを、御容赦願い申し上げます。 ■菊坂町 寛永五年(文政図)の菊坂界隈は御中間方大縄拝領地でした、町名由来の菊は長禄頃から作られていたようで付近一帯花畑であったとの記載があります。ここは南側だけの片側町で、北の方を里俗奥山といい、東に長泉寺、本妙寺があり、西は菊坂田町、南に本妙寺坂がある。北側の菊坂は崖になっていて冬季になると雪崩が多い所でした。 この菊坂町と菊坂田町、同台町、同丸山田町、小石川片町、丸山新町を含めて里俗『丸山』と云う「府内備考」。そして町屋が許され、元禄九年に町方支配となったと記載が在ります。 さて、その菊坂町はと云いますと急激に開かれて行く今で言う新興住宅地町屋故に、住む人も増え生活に必要な上下水も周囲の道も当然必要となり以後利便性を考え、次々と整備されて行く事にあいなるわけです。 ◎其の一つがナダレ地の造成利用です。 其の頃、東大下水に沿って本妙寺谷下道に降りて行く処現在の角(カド)店(旧柴田商店)辺りがそうです。大昔水位が上がっていた頃は、入り江でした。Kaiwai散策のmasaさんのブログを見ていただくとより一層、実感していただけることと思います。では、この坂を下っていくことに致しましょう。 ※本妙寺坂のある谷戸 https://mods.mods.jp/blog/archives/000733.html
往古、下道に下りて行く坂の右側は、江戸時代ナダレ地の為、(ナダレ・明き地・明地・空地)の様な表示が古地図にはあります。 ●『本郷菊坂道造屋敷』 菊坂町内の「仁兵衛」他15名が当時の道奉行「武島次郎左衛門」と「伊勢平八郎」にナダレ地の造成利用を申請し、翌年工事を俊成。その結果: 雪崩地延長205間・奥行3〜4間半という長〜い長屋が完成致します。 ・元禄11年(1698)8月永代橋の往来が出来るようになった年〜元文五(1740)頃迄町方支配とされ『本郷菊坂道造屋敷』と唱え、 先の16名で所有され ていたそうです。 ●『菊坂上納屋敷』 ◎ここで注目! ・寛保年間(1741頃)故ありて公収され競売される。結果:當町「安右衛門」「権左衛門」と決まり上納請負が命ぜられるた。とある。 『本郷菊坂道造屋敷』から『菊坂上納屋敷』と云われるようになった。つまりは「東大下水」の項で書いた「本郷丸山局見世長屋」が出来るわけです。…※別資料あり。 ・その後、市家を撤し武家地と為し旗本及び小役人の拝領地となる。 (◆新撰東京名所圖會P83下より) 天保の江戸町鑑に見る、・寛政11年(1799)11月8日(別項では18日記載)小田切土佐守様御掛りにて、町屋取拂當時武家地になると記載あり往時、名主の名前に吉野喜兵衛の名がある。 尚、別に◎本郷菊坂町 〇町名の起源と沿革の項に ※明治ニ年、道造屋敷の残地及び本郷四丁目、五丁目の代地を併せ、また傍近の土地を合して其の町域を拡 張せりとある。 (◆新撰東京名所圖會P88〜89) 『戸田茂睡と炭団坂』U◎そしてもう一つが、「本郷が好き」の一人『戸田茂睡』翁の残してくれた「御富代記の第五巻」37頁・38頁にある炭団坂と思われる開通記事なのです。 ※『御富代記』には、 元禄10(1697)年「一頃日、丸山与力の下屋敷上り、本郷四丁目の水落流付かハり、弓町より梨木坂へ之道開」という記録があります。 これらは、※詳細に二月十日と記録されておりますが。次の項の間に差し込まれている、つまりは 後から書き足した物でこの日とは限らないと云う意見、また開通した道も、今の段階では炭団坂と確定しない方がいいとの事でした。小生は当時戸田茂睡の事は赤子同然でしたので只、筆者が書き足したのは往時の翁の生活に何か関係が有るのではと感じたのです。@そこでその後も色々な古図を見て見るのですが「炭団坂」が無い頃の弓町より繋がっている道は。 寛文11(1671)年の「新板江戸外絵図(寛文図)」を見ても「付け木店」からの道、また三層重ね地図にあるように真光寺内を抜けて、玉川一郎氏生誕の地の近くに出で、東大下水を渡り「付け木店」からの降り口、明治ならば「利根川自転車屋」(最近なら「八百幸」)当たりに合流する道順。そして一般的な余語良琢屋敷(よごりょうたくやしき)前を通って来る「本妙寺坂」、今一つは「鐙坂」を下り大下水を渡る『菊坂橋』を含む幾つかの橋を渡らなければ、梨木坂には来れないし、今まであった坂の水の流れつきが変わったのなら、逆に「本妙寺坂」「鐙坂」など、の流れ付き変わりと、坂の名前を書くのでは無いのでしょうか。逆に、炭団坂ではないのでは、という理由と証拠を先に聞かせていただきたくなって参りました。だからこそ『沿革図書』の記載矛盾を挙げたつもりなのですが・・・。 与太郎の戯言… A横関英一先生が教えて下さったように。天保(1830〜1843)頃の写本「江戸大名町案内」にある、風流な別名「初音坂」とも呼ばれるようになる愛すべき坂だが、云わば広く言われている「炭団坂」と云う坂の名前が付く前が在ったわけで、雨が降れば雨水が一筋流れ、乾いている時は、その道を人が通って大下水の流れと平行する、細い菊坂の下道へと抜けていたのではないかと考えているのです。 それが元禄九年の町屋が開かれるに併せて少し手が加えられ、何時も安心して通れるように流れを変え脇に寄せたのが元禄10年(1697)であり、水戸様火事により一変した土地が再下賜される際、道が整備されその様相を整えられたのが『沿革図書』宝永元年にあたる道ではないのでしょうか。 ■典拠資料 □新撰「東京名所圖會」 □文政「江戸町細見」 □「本郷古図」 ■Kaiwai散策のmasaさんのブログ 2005年12月08日 本妙寺坂のある谷戸 https://mods.mods.jp/blog/archives/000733.html □本郷古図を探る!…菊坂の与太郎資料 真砂図書館の優れた司書の方、町内古老・他町会の皆様の御協力に感謝致します。 菊坂の与太郎
※纏め:本郷菊坂丁之内『道造り屋敷??』があり続地が「武家地」となっていることから、その年代を寛政11年(1799)11月18日以降なのでわないかと現在は考えている。
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