■本郷の回覧板

昔空間散歩の薦め

菊坂の与太郎シリーズ

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 『本妙寺坂』

本妙寺坂 を下り 本妙谷へ   

  さて、いよいよ本妙寺坂を下る。この道は「本妙寺谷」への道でもあり、菊坂通りを挟んで本妙寺総門門前坂へと続く場所でもある。この頃の坂道は表面が「蛸の吸盤」のようなリング状の溝式であった。また其の前は、総門門前の坂がそうであったように「横皺横溝」方式だったのではと思う。

『江戸の坂東京の坂』にその頃の写真を見い出しました。 記録して下さった、横関先生に感謝!・尚、コメントに間違いがあるものの、『文京区の散歩道』江幡潤先生著にも、大名屋敷を含む関連写真が在ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔も今も子供は遊びの天才。とにかくこの坂は子供達にとって雪が降り積もれば格好の遊び場。梯子をソリ代わりに使い、当時の少年らは友達と滑ったそうだ。勿論、危険を避ける為、道の真ん中を滑る。当時履物といえば下駄が主流だった、遊びを観る大人は「お前らがこんな遊びをするから、雪が固まってしょうがない。氷になり足元がスベルじゃないか。」と脇を歩きながらどなっていったそうである。よく考えれば歩道端や脇をソリが滑る筈がない。自分の子供時代を忘れた大人は横暴である。 

本妙寺坂を、右手に旅館「富士館」左手に大名屋敷の石垣、途中に大きな黒塗りの護美箱を電信柱の横に見ながら、本妙谷に下って行くと

江戸期からの石垣が平積みに変わる辺りであろうか昔の雪崩留め石垣は真砂遺跡調査結果によると本妙寺坂に面した側面はあったものの、その北側に面した一帯には無く、もともと崩れやすい一帯であった。戦後、本妙寺坂と石垣 また、現在の北側石垣よりその雪崩地はずっと奥まっていたようです、廃藩置県後改修が行われ検地石で北面も覆われ、大量の石炭ガラを盛土してその土地の有効利用がなされました。時は移ろい公団兼施設を建てるに当たり、「弓町遺跡調査」となり1998年調査・建築。現代に至っております。 

そして東京都公文書館を閲覧すると、1874(明治七)年5/10、『本妙寺坂修繕願いに付聞届』けが提出されておりました。

その道の反対側、旅館「富士館」近くの電柱に、本郷三丁目16系・都電停留所写真(蟹江氏撮影)の中に見た「前島歯科医院」の名が看板が掛かっておりました。富士館が切れる辺りに奥に入る道、下に賄いが坂沿にあり、二階には客室が奥に伸びているのが見えました。この下を入って行くと、例の教会や玉川一郎氏の生家、そして叔父の経営していたお弁当屋へと出ることが出来ます。   坂をさらに下ると、ピンクのフラミンゴが描かれたモード(婦人服店)がありました。古い地図にはこの位置に「露喜社」との記載もあり、アパートになっております。

そして降り切る辺り本妙寺谷には(本郷旅館会館組合案内所)があり、二階には公文の教室が行われていました。・・それも、時の流れのせいでしょうか、現在は取り壊しが決まっており、土地が売りに出されております。※追加。小学校の登校時などに感じた、あの季節になるとたわわに実った枇杷の木も切り取られてしまいその姿を写真でしか見られなくなりました。溶岩の石も消え、特に懐かしい玄関の上に付いていた丸い白色ガラスグローブも、もう点灯する事はありません。時の移ろいと憂いを感じました。

閑話休題、さて明治大正期の頃ここらはと云うと、東大下水が暗渠から姿を現しました。それらの地図が玉川一郎先生の著書。青蛙書房から出ている「大正・本郷の子」表紙裏に掲載されていますので覗いてみましょう。この地図は奥様との共同制作で、奥様はあのドサクサの十二階が崩れるところを目撃したという方です。とても、面白く為になる本です。是非機会をつくってお読み下さいね。さて、玉川一郎先生の地図によると、以前の「魚よし」さんがここらにありその奥に、現在も『金魚坂』で有名な「吉田金魚屋」さんが、明治初年ここに引っ越してきていました。 明治期にはここで全国金魚品評会をやったという記録があったりします。東大下水(昔の川)は其の流れを巧みに利用した吉田金魚先代の、知恵にエラク感心致します。 その流れが、正面から見て「本郷旅館会館」土台、石垣左下沿いにあったようです。東京都公文書館資料には1876(明治九)年には『本妙寺前大下水上埋め込み蓋大破』があり、その修繕入費用の件としてお伺いが立てられています。調査時の現在、黒いアスファルト位置が測量の為の工事跡で、測量点AB間に東大下水が流れていたのでしょう。たまたまいらした現地土地の販売員の方に「東大下水」の事を話したところ、「そういえば測量の折に(個人的には)誰の土地でもない部分が一部あり、本来の位置より旅館組合の土地は、道路に食われているようだ。」ということを聞きました。以前、東大下水の項で書きましたが「明月堂」脇の、大下水流れ跡の空白域でも、同じようなことを聴き、上流からの繋がりを垣間見る気がしました。ここを東大下水が流れ、また『不求の橋』が掛かっていたのでしょうか・・。さらに遡って江戸期はどうなっていたのでしょう。幸いにも報告書が・・。

前述の大名屋敷の真砂遺跡調査報告書■『真砂遺跡1987』P369資料(「屋敷渡預絵図証文」題七十三巻より抄)によると1704(宝永元年)、本妙寺坂の道幅より、下記説明の■「道造り屋敷残地」・・右「柴田商店」通称角(カド)店東側辺りは、一回り道幅が狭くなりその道幅よりさらに狭い橋下記の土橋が架かっていたのではないか。そしてこれが『不求の橋』と思われるものなのです。

では、それはどんな規模の橋だったのでしょうか、謎は深まります。 「府内備考」巻之35 本郷之四P127にこの辺に架かっていた東大下水の橋とは「土橋」×1と「板橋」×3の記載があります。その詳細は・・・。

‥擽供…垢菊鶸崢・幅三間程、

右大下水端屋敷柵土橋とも近辺武家方、寺院、町方とも但合普請した。故に、組合を作り其の管理を持ち回りにて管理したとあり、柵が設置されていた事が分りました。

板橋 二箇所は長二間・幅壱間 壱箇所は長壱間・幅三尺とありその規模が目に浮かんで参るようです。

東京市史稿によると・・

1780(安永九)年庚子9/27に本妙寺下埋下水修理【附記。四】として記載があり、文面から当時の本妙寺谷の当時の様子が伺われます。

<本郷丸山本妙寺下 埋下水修復〆切場所。>東−町屋、高木幸次郎。 東西各七間。西−町屋、大下水、道、松田吉右衛門 南−坂。 南−五間。  北−道。 北−四間。とあり 本郷丸山本妙寺坂下埋下水修復ニ付、普請中〆切竹矢来地面被御渡之遊_、四方間敷、右繪圖の面、御定杭之通、相違無奉御座請取いし  為ニ後日一件仍如ι件。 小笠原津八郎内 千葉伊織 印  1780(安永九)年庚子9/27 御普請方改役暇役 石川次郎左右衛門殿宛制作されている 屋敷渡預繪圖謄文

元禄十年頃東大下水の流れ出る位置を背にして立つと、角店の脇の菊坂の下道には昭和6年頃暗渠化された(昔の大下水路)が目前に伸びていた筈です。

◎幸いな事に、左側にある大名屋敷の石垣が迫る昭和29年当時「柴田商店」の写真を見る事が出来ます。この石垣も平積みの部分が加わる前は、もっと奥に引っ込んでおり石垣も、坂側面の普請のみで、上の崖には平行して鐙坂上まで道が繋がっていたことがあるようです、ただ大雪崩地であるが故に一雨あればよく崩れた場所だったそうです。

■写真を見ると 花嫁が近所に挨拶をし、下駄を履いた子が三輪車にまたぎながら木箱に乗せた懐かしいお菓子のショーケースを見ています。

写真提供 SK氏 感謝です。

さて小生が記憶に残っています下道と小笠原佐渡之守屋敷との間には空間があり窪地には貯水槽と平屋のアパート状のような建物があったような気がします。その後小学校の頃には※西美農 わが街 P8-9に昭和のアパート的なビルが建っていました、その後坂沿いの一階には、土地オーナーの八百屋さん先の成瀬映画「晩菊」に出て来た岩崎屋酒店のシーンに見られるよしずと芋洗い用の樽がある旅館「大光館」前から移り営業、後に大名屋敷跡のアーバン工事が始まる頃「アーバン」という喫茶店に変わった記憶があります。今は立派なマンションが建っており調剤薬局と、地下は駐車場、石垣までの空間も駐車場と也、今も広がっております。

■「道造り屋敷残地」・・右「柴田商店」通称角(カド)店は、小間物を扱うミヨシ屋さんの時期を挟み明治二年まで「道造り屋敷残地」と呼ばれ、なんと大岡越前で好演していた竹脇夢我で有名な小石川養生所の所有地であった。だがその歴史は深く元禄期菊坂の町屋発展の謎を紐解く大きなヒントが、隠されておりました。

●「菊坂」は府内備考巻35-P124上段中程によれば本郷起立の儀は長禄年中。菊坂臺町は、府内備考巻35-P119に、古くは百姓地でもあり其の頃空地が多かったとある。地名の由来は一面が菊畑だった為との事であり分かり易い。但、其の範囲たるや「御弓町」と同じ一帯を「菊坂」と言う為、坂上を「菊坂台町」その下の土手中通り(丸山通)周辺を「菊坂町」と唱えていたようです。(1627〜1928)寛永4辰〜5年頃、幕府中間方三組に拝領されその住まいとなる。後々76人拝領仕組屋敷となって中間方大縄拝領地となった。

菊坂町一帯は斜面地故、片側に開けた町であり、またその北方横丁まで「奥山」と唱えていた其の頃。 

・1627(寛永四)年加賀藩邸では、おりしも普請がおこなわれ金沢から「富山藩」と「大聖寺藩」の公子や隠居が帝大の敷地内に移って来る。

・1628(寛永5)年「菊坂田町」が中間方拝領地に加わった府内備考巻35-P128。次の年・1629(寛永六)年)加賀藩邸内に以前からあった丸塚の『富士権現』を駒込の富士神社に遷座し合祀した※駒込富士神社誌, 飯塚文治郎氏著 参照

■水戸後楽藩邸   この地はもと「蒲生中務大輔忠郷(がもうなかつかさたいゆうたださと)」の居住せし所也、と云うが1627(寛永四年)正月に卒去せり。其の際将軍命じて「本妙寺を」丸山に。「吉祥寺」を駒込に遷した。・・P7広さ実に七萬六千六百八十九坪。1629(寛永六年)閏二月、徳川第二世の将軍秀忠公の水戸藩主徳川頼房卿(第一世威公)が賜りし宅地とす。とある、だが※別の資料には寛永13年(1636)出火のため本妙寺が全焼した。との記述もあり詳細についてはまだ調べていない。

1657(明暦三年)振袖火事の大火後に小石川の屋敷を水戸後楽藩邸とした。その後も元禄16年(1703)11/29の有名な水戸様火事「享保1716〜」羅災の後「文政1818〜」に亦鳥有に帰せり。と記述があるP8 そして「本妙寺」及び小石川金杉「長泉寺」敷地等が下賜された占有地は後の砲兵工廠であった後楽園遊園地の界隈、及び中央大学の理工学部敷地辺も含み水戸藩邸であったと云う。

■類火にあった「本妙寺」だが。                               本妙寺の檀家でもあった「久世大和守広之」の後押しにより本郷丸山本妙寺の土地、16,203屬稜厠涼呂816,75屬了添地という広大な土地が与えられた。

※また本妙寺の公式HPには記として「久世」、「大久保」、「阿部」等幕臣の帰依を得てその外護により伽藍も整備されたが、寛永13年(1636)出火のため全焼した。 その後、久世大和守広之の尽力により本郷丸山に替地をうけ、 約6000坪の境内に九間四面の本堂や千仏堂、客殿、書院、庫裡、鐘楼山門等完備し、塔頭寺院も十二と七堂伽藍の整った大寺院として復興した。しかるに僅か数年後の明暦三年(1657)正月十八日、明暦の大火によって悉く焼失した。しかし、大火から3年後に、客殿、庫裏を、6年後には本堂を復興した ■本妙寺HP沿革より http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/

また明治43年(1910)巣鴨に移転する迄には、敷地が縮小され続け、東京市 本郷區本郷菊坂町八拾弐番地として東京都公文書館に、・・本妙寺      

・明治25年10/7 田中日乗より、枯れ木伐採願いが。               

・明治43年11/8には津田日彰より、大黒堂取毀・総門の移転改築願いが出されていた。(図面あり)それによると移転間際は、なんと現在文京区教育委員会の遺跡調査整理作業施設となっている、地下埋蔵物が残っている可能性が高い。    尚、上記のように総門が、元前嶋歯科医院位置より、遺跡調査整理作業施設角当たりまで、後退した事が判る。

   今は、元本妙寺敷地跡は切り売りされ建売住宅地として建設中のところもある。  

小石川金杉にあった「長泉寺」と共に本郷丸山へ移動(敷地しくは●「本妙寺跡」で旧吉祥寺橋(現・水道橋)より、昔荷物を上げ下げした甚平河岸を挟み黄色いビル側の位置に・・寛永13年(1636)水戸藩が、小石川御門(小石川見附)を設置した。)

■吉祥寺 またついでに吉祥寺ですが(吉祥寺橋)今の水道橋から上水樋の近くに位置していた広大な敷地の寺だったが、1636(寛永13)年丙子 類火ミ(東京史29-467)全焼。先に移動していった▲本郷・丸山本妙寺付近から恋い焦がれて死んだ娘が、気に入っていた紫ちりめんの振袖供養から起こった「振り袖火事」

明暦3年(1657)年1月18日昼過ぎ出火の煽りを受け類焼したが、吉祥寺はその寺領を縮小したに止まった。しかし、

・翌年・・・再び火災に見舞われる。それが通称「吉祥寺の大火」である。と云っても、 ※本郷三丁目より出火、引続き江戸中大半滅亡。と・・・武江年表には、ある。

1658(万治元)年一月十日 万治の大火に遭い「吉祥寺」は現。水道橋の地より退転した。※この時、門前住人らも移転、後幕府の用意する三鷹市の牟礼(牟礼野・無礼野)現・中央線沿線「吉祥寺」吉祥寺村と、駒込富士権現近く「吉祥寺」の地へ残った住人とに分かれたと言う。だから万治の大火に遭い「吉祥寺」が引っ越したわけだが「明暦の大火」から1年以内であり「明暦の大火」によっても焼けたことから、明暦の大火によって引っ越したと言っても差し支えないような気もする。 そして後、約25年して 

八百屋お七火事●1682(天和二)1月25日お七が思い余って自分の家に火を点けるがスグ消し止められた、 ボヤ程度であったとか・・。よく、同年12月28日 向丘1-11-3の「大圓寺」搭中の大竜庵から出火した大火とされる向きもあるが当時、深川沿いに住む芭蕉が、川に飛び込み火を逃れたと云うエピソードや、学寮の了翁僧都が、その貴重な書籍を売り払い、代金千二百両を貧人に施したという慈善の話が伝わり、八百屋お七の家が焼け出されたのが●1681(天和元)年2月の大火事である。・1683(天和三)年 本郷筋広小路が出来た年。当時放火は重罪とされており、 3/29 駒込片町八百屋お七、小塚原で火刑が行われたとも云う。また、寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で鈴ヶ森刑場で火刑され。遺体は実母が、お七を哀れに思い故郷の長妙寺に埋葬したともいわれていて過去帳にも簡単な記載があるという節もある。

◎本妙寺谷界隈―

道造り屋敷篇・・・・・・

菊坂の丸山通辺り(明治以降の菊坂の道〔新道〕を除く、菊坂通り)は、片側町でその谷側は雪崩地であり谷には大下水(大昔は小さな船の通れる程の運河)が流れていたという古老の口伝、燕楽軒下辺りに船着場があったそうだ。その裏付けとして新道(菊坂の通り)に位置する M邸建替時のボーリング結果の記事等が挙げられる)

元禄期、町屋が菊坂に許されると急激に開け始め、新興住宅地の土地が不足した。そこで、雪崩地を活用しようと当町の「仁兵衛」他15名が道奉行「武島次郎左衛門」「伊勢平八郎」にナダレ地の造成利用を申請した。只これだけでは時代が読めない為・・・◆歌人『戸田茂睡』翁の動きを辿りながら、富士山大噴火1707(宝永四)年近辺まで、この時代の本郷界隈を垣間見ようと思う。                                ―<略>―       ― 菊坂の与太郎 資料―      

1687(貞亨四)年0327 本多中務大輔家中岡野外庵の中間久兵衛死罪。         同家乳母勤めの有夫のヨシを誘い出して神奈川の旅宿へうりとばした

     ヨシも同断(裁許帳二二○)。P79

●1688(元禄元)年0104本多中務大輔中、錦織十郎右衛門方で若党山口儀右衛 門が錦織 倅与五郎を殺して逃走。(寛保集成四八・町触二)

・1689(元禄二)年0712 江戸本郷三丁目 名主文左衛門ら三人刀剣売買詐欺   で死罪 (裁許帳二六三) 

茂1689(元禄二)水戸宰相家の御庭を見る詞、色紙短尺之事。

茂1690(元禄三)年62歳 住:「丸山本妙寺谷梨本に隠家

・1691年(元禄4年)1月1日に昭儀坊で浅井了意卒す。亡くなったという説と。

・1692(元禄五)年1003永福寺の項に、別物と思うが了意卒すの記載がある。

茂1693(元禄六)年65歳 住:「本所新堀の南二つ目の橋の近所、定堀浚やく人屋敷。」のち本所のうらかしこに住居せし・・・。」元禄九年秋まで居住本所森下町・江戸本郷二丁目 三左衛門が、酔って母親を殴りそれを止めようとした家主召使を、鉋で殴っ て怪我をさせた。1026死罪 (裁許帳四二)

・1694(元禄七)年1123 水戸光圀、侫臣藤井紋太夫を手打ちにする。

・1695(元禄八)年1025 江戸辻番の八兵衛、溝の中の小犬を母犬の目につき易いようにと離れた屋敷際へ置いたのを「捨てた」とみなされ獄門 (裁許帳二九〇)

△1695(元禄八)年  

第一「法眼古庵余語先生墓、元禄八乙亥年三月十九日卒、孝子元善建」

1696(元禄9)年 仙川上水

   −×1714(正徳4)年六義園閉鎖/−×1722(享保7)年

茂1696(元禄九)年秋68歳 住:「本郷お弓町とみ坂本明寺へ出る三つ辻の屋敷へうつりて草庵をむすぶ」(石川新之丞という御弓町同心御屋敷に作りたる庵)  ・菊坂に町屋が許され、当町「仁兵衛」他15名が道奉行「武島次郎左衛門」「伊勢平八郎」 にナダレ地の造成利用申請、翌年工事を俊成。雪崩地延長205間,奥行 3〜4間半の 長〜い長〜い、一つの長屋が完成する。

茂1697(元禄10)年『御当代記』に、「一頃日、丸山与力の下屋敷上り、本郷四丁目の 水落流付かハり、弓町より梨木坂へ之道開」とある。 

1698(元禄11)年71歳 「梨本集」著述

・町方支配となりて、本郷菊坂道造屋敷と唱え先の16名で所有していた。

◎道造屋敷完成 1698(元禄11)年 〜1717(享保ニ)年丙申迄 

・永福寺はこの時また、大火に遭う。

茂1699(元禄12)年0229 茂71歳 住:「本郷森川宿本多氏下屋敷内養子宅にて妻・お兵歿」

1699(元禄12)年岡野氏あて茂睡書状の一考察-戸田正彦

茂1700(元禄13)年春   武陽城北平野屋吉兵衛國にて出版

・1701(元禄14)年0314 赤穂藩主浅野内匠頭長矩、殿中で高家吉良上野介義央 に斬りつけ即日切腹。よみうり・瓦版

茂1702(元禄15)年4月御当代記

・1702(元禄15)年1214 大石内蔵助ら浪士46人、本所松坂町の吉良邸を襲撃。

住元禄16年(1703)75歳 「東海道武蔵国豊島郡大根畑」

・元禄16年(1703)11/22 関東大震災、

・江戸大火、安房・上総・伊豆大島など津波・死者15万4300人。

・元禄16年(1703)11/29 水戸様より出火 ●水戸様火事

・1704(宝永元)年「小笠原佐渡之守屋敷」1704(宝永)〜1858(安政)年上地される

 その後■「信濃上田藩松平家屋敷」の所有となる。

茂1706(宝永三)年04/14 戸田茂睡78才歿 住「八丁堀友人「山名弾正屋敷」にて歿す。

・1707(宝永四)年11/23 富士山大噴火。28日ようやく鎮静「宝永山」誕生

×1714(正徳4)年 六義園閉鎖

1716年 2月29日丑 本郷6丁目、本多忠良下屋敷にて出火、

      焼失面積150,000〔屐融犲毀

○1780(安永九)年子に往還東の方へ寄大樋掛り。北木戸際へ小桝復興〜×1786(天明七)年

×1786(天明七)年未四月中差止に相成埋立申候。

※以上■与太郎の<本郷界隈年表>より抜粋した。

■<本郷界隈年表>主な典拠元

・江戸10万日 全記録 明田鉄男

・戸田茂睡考-「戸田家系圖并ニ高名物語」に見る人間茂睡-戸田正彦

・戸田茂睡考-元禄十二年岡野氏あて茂睡書状の一考察-戸田正彦

・武江年表 斉藤月岑 著 金子光晴 校訂 

・※振袖火事と八百屋お七と水戸様火事の江戸雑学 加瀬順一 著

・東京都公文書・東京市史稿 などなど参考にさせて頂いた。感謝である。

『江戸の坂東京の坂』 著「横関英一先生」に感謝!

・『文京区の散歩道』  著「江幡 潤 先生」

・(東大下水・本妙寺谷界隈関連) 「上納屋敷」本郷丸山局見せ長屋篇 

IT情報:Key 「万治の大火  吉祥寺移転」IT検索結果参照。

・吉祥寺スタイル    https://www1.parkcity.ne.jp/susumus/index.htm

・『吉祥寺』はどこ?  https://www.din.or.jp/~tetsuko/jyoji/history/wherejyo-ji.html

他、検索結果サイト各位様。 感謝      H200319  本郷 菊坂の与太郎 (紫雲)