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菊坂の与太郎シリーズ

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 『長泉寺』

 

 

■長泉寺(ちょうせんじ)

長泉寺は1560(永禄三)年庚申小石川金杉現在の「安藤坂 」伝通院, 伝通院門前に繋がる坂下、付近に創建された寺。古老伝へでは「安藤殿坂」昔は「網干し坂」とも呼ばれていた辺りにあり。そこらは大昔は入り江であり網のほか、捕れた鮫等も干していたと言う。 

まだ、水道橋が吉祥寺橋と呼ばれていた頃、幕府から水戸藩に対し、小石川後楽園藩邸敷地の『拡張拝領』にあたり、1635(寛永12)年「長泉寺」が後楽園から「本妙寺」そばに移動、菊坂臺町に伽藍を建てた。旧菊坂15番地本郷丸山に移動したここは「水戸光圀」こと黄門様が少なくとも三度訪れていると云う。

◆何故??  ◆ そういえば、絵地図観光案内にもそのような一文があった。ここで、一冊の本を引用したい。本郷仏教会編「本郷の寺院」-街と寺誌だ。文中に★[-古書に「その節の殿堂は・・・・・・水戸中納言光圀公ご建立あそばされ、その御普請中には三度見えられ・・・・・・」とあり、当初の伽藍は水戸光圀(西山公)によって建てられたものと推定されている。後、正徳年中(1710頃)と、享保年中(1730頃)に類焼し、昭和20年(1945)空襲によって山門を残し全焼した。現本堂は昭和三十九年(1964)完成し、本尊釈迦牟尼仏仏像は現二十世住職の製作によるもの。その型は拈華微笑の像(総丈160cm)を完成、昭和五十五年(1980)三月観音堂を建立した。」とある。]

当長泉寺の過去帳をみると、江戸切絵図に名前の出ている江戸初期から中期にかけての多数の武家や御殿医、書家、学者詩人などが載っている。大正になると初代大関の朝汐太郎の名が見受けられる。永禄三年(1560)この寺が創建されてより現在まで約四二〇年余りの歳月がたっている。(片山孝祐記)こと第二十世の堂頭大和尚が記録し残していてくれていた。だが、それだけなのかまだ納得がいかない点もある・・・・。閑話休題 隣の赤心館には金田一京助が啄木とともに住んでいたのだが、学者肌の金田一京助先生、森川町に引っ越した後も住民票を移さなかったことから。金田一春彦氏は、阿部藩(注・西片町の元福山藩阿部家下屋敷)の関与した誠之(せいし)小学校には行けず、なんと真砂小学校に通ったと云う。その関係からか菊坂界隈の友達が多く長泉寺にて日曜日に行っていた子供向けの講話を楽しみ、親しんだと自伝に書いてある、また、小さい時期の一番の良い思い出として、「長泉寺」が出てくる。そう稚児行列の参加という出来事である。

そして、ある出来事があった。1924 (大正13)年9月1日午後6時20分、本郷區は本郷4−22の西洋料理店『燕楽軒』前で車から降りた軍事参議官の福田雅太郎陸軍大将が和田久太郎(32)にピストルで撃たれ軽傷を負った関東大震災の後、菊坂町会主催の追悼集会が「長泉寺」で開かれたこ・・・ 加筆中!!

・そして、この寺の前で新東宝映画「大虐殺」が当時ロケをしました。また、「上田屋豆腐店」のお兄ちゃんから「昔、長泉寺の山門の内、右側に、菊坂町会の御神輿等を収納する場所があった。」と聞き驚かされた。昔の「菊坂町会」と「長泉寺」の関係の深さが感じられますね。

◎尚、先日幻の「本妙寺」から「梨の木坂」への抜け道調査の際、記録すべき事があったのでここに追加記載して置きます。

■長泉寺 山門南側石崖工事 昭和46年12月完成 二十世 孝祐代

(有) 鈴木石工店 二番組 新道 榎本 第二期工事 

昭和五十九年九月完 三区六番組只野工務店

また参道横の路地、例のお気に入り昭和初期模範家屋のある路地の石垣側面を見ていただくと参道下(町会防災小屋のある処)で最低でも三回は普請が行われている模様だ。先のS15年の長泉寺参道写真と現在の参道の敷石を比べて頂きたい、S15年以降にも手が加えられている事が分かるかと思う。現在右側部分石柱の下、下水の侵食による地下の空洞化が進んでいるのではないかと与太郎は心配している。(H1809)

・森(鴎)外「伊澤欄軒」にみる「長泉寺」と「戸田茂睡」

 『伊澤蘭軒』著(森?外)に法眼(御殿医)余語氏と共に長泉寺が何度も登場している。また長泉寺西側には戸田茂睡翁の居住地の一つとされている「梨木坂」が接し、其の場所辺りは往古より丸山の一つとの口伝があるのも忘れてはいけないだろう。

●森鴎外の『伊沢蘭軒』文中には、十四日には程近き長泉寺に遊んだ。「六月十四日、長泉寺避暑、寺在丸山、往昔元禄中、隠士戸田茂睡、老居此地、園植梨数十株、今有梨坂。梨花坂北有松門。涼籟吹衣到祇園。清浄心他山翠色。安禅坐是石苔痕。幽禽境静猶親客。炎日樹喬不入軒。方識昔時高尚士。卜隣此地避塵喧」と梨木坂の隠士 戸田茂睡の老居場所ヒントがある・・・。 ・また明治期の地図に本妙寺総門より長泉寺山門前を通り「梨木坂」途中迄の幻の道が描かれている地図がある。さらに臺町の吉澤酒店近くの民家で、土台工事の折発見されたトラック三杯もの土砂を注入した地下通路の方向が「本妙寺」では無く「長泉寺」に伸びている事を特筆して置きたい。尚『風俗画報 第358号(新撰東京名所図会 第48編 本郷区之部 其一)』(明治40年2月25日発行)P99には、当時の長泉寺を[本妙寺の前を西行すること数十歩。北に當りて山門を認む。石路以って達すべし。左右に一列各四株の松樹あり。・・・とある。]これが菊富士楼や赤心館側から入った裏門からの光景か、菊坂通り側からの山門への参道のことを表わしているのかは、まだ、ハッキリしない・・。只、東大YMCA(旧・帝大YMCA)の台町会館の写っている写真には、長泉寺の参道あたりに大きな背の高い木が写っている、それが昭和15年の写真にはまだ、存在し認められるようである※明治の台町風景●所蔵図書 菊坂台地(新撰東京名所圖會より)  

少し時間が出来たので、表題写真S15の菊坂町会神輿写真の分析を試みた。1700年代中頃からの山門より下に降りると、踊り場がありそこを別記した、本妙寺総門〜から梨木坂に抜ける道が横切っていたようだ。  阿部さま屋敷崖下の一葉の最後の住まい、丸山福山町の家が崖崩れて潰れた同時期に崩れた道である。それ程明治43年頃の記録的大雨は酷かった。浅草浅草寺の大きな提灯はたたまれ、仁王門の中廊に非難している人々が写った古写真を見たことがある。また、崩れた道付近にあの「菊富士ホテル」が大正に入りオープンしている。それはさて置きその踊り場的空間下二段。ここは上の階段と同じ奥行きでありあたかも、結界域に入る階段とも取れる。この特徴ある二段の両サイドから縁石が始まる(ピンクの円を表示した位置)ここを基点として段数毎に数字を付けた処、六段目の位置と推測される。この位置は丁度、角(スミ)ちゃんの住んでいた頃、裏木戸があった位置ちょい上で、今もコンクリート塀の間戸の在った場所に付け足された8個横2×縦4個のブロック積みと朽ち始めた板とで覆ってある付近のようだ。この木の高さは、参道両サイドに大正11年弐月から建つ石柱を見上げてもらうと見当が付くと思うがかなり高い木である。コレが何の木であったのかはまだ画像からは分かっていない。 

そうそう、謎とされていた西山公こと「水戸光圀」黄門様との関係が新たに出て来た。(文京區史)の中に書かれていた事であるが、他の項で■長泉寺を紹介する為記載した文をここに掲載して置くことにする。

長泉寺(ちょうせんじ)は古く1560(永禄三)年庚申、小石川金杉に創建され水道橋が吉祥寺橋と呼ばれていた頃、類火に遭っている。上地後、水戸藩へ幕府より小石川後楽園藩邸給地拡大拝領にあたり移動した。

・二代目和尚「陀山和尚」は明僧心越禅師と交わり深かった為、西公が江戸来遊の折明僧心越禅師の紹介で 「陀山和尚」誘引か? 光圀の帰依(本郷區史P120/126)として載っている。

・1636(寛永13)年丙子小石川金杉にあった「長泉寺」は、「本妙寺」と共に移動。現在の旧菊坂15番地の本郷丸山に移った。そこは「水戸光圀」黄門様が足しげく訪れている場所でもあった。御府内寺社備考 第五編には当時の寺中の見取り図や、なんと黄門様の忘れ物!!?? それとも寺に帰依した証拠??なんと「水戸黄門さまの杖」があったようですが今はもう無いようですでも絵図として第五編 曹洞宗 129」に記録がされています。

『伊澤蘭軒』著(森歐外)に法眼(御殿医)余語氏と共に何度も登場している。また文中にもある長泉寺は、西側に戸田茂睡翁の居住地の一つとされている「梨木坂」が接し其の辺りは往古より丸山の一つとも往古より口伝がある場所で、東側には「本妙寺」、北側には入澤達吉氏に(雲荘随筆P302)にある山村一蔵という人が造った「独逸学校」が接していた。

長泉寺の過去帳は歴史的価値が高く、布教とその歴史的記録の使命を全うしている確かなお寺であると思います。

・幼い時、空のヤカンや一升瓶を持ち、友達と小銭を握り締めて長泉寺を尋ね、お釈迦様の誕生日に甘茶をかけ、法話を聴き、帰りには行きよりも重い甘茶のお土産を家に得意げに持ち帰り、分け合いながら甘茶を楽しんだ思い出がある。優しい御住職でもあり、また秀ちゃんのお父さんでもある堂頭大和尚が昨年夏に亡くなられたのが惜しまれる。       ■本郷 菊坂の与太郎 (梨木紫雲)