速報!! -復活『梨木坂』案内板-

◎没後300年の節目の年「本郷が好き!」の一人

「戸田茂睡」翁関連『梨の木坂』『梨木坂』『梨坂』案内板が復活。

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文京区区長・教育委員会の粋な計らいに感激!!      H180317

以前小生は『戸田茂睡と炭団坂』のHPにて ■文京区区長・教育委員会に、物申す!!。

と載せていましたが平成18年度3月10日、この度『梨の木坂』の案内板が復活いたしました。

 今年は茂睡翁が78歳で卒してから丁度300年の節目に当たります。その年に復活

とは恐れ入りました、そしてありがとう。これでこそ「文の京」にふさわしい出来事ですね。

       『戸田茂睡と炭団坂』   

●戸田茂睡ってどんな人?

「紫の一本(ヒトモト)」と言えば戸田茂睡氏、1629年〜宝永3年(1706)4月14日、富士山大噴

火の前年に78歳で卒した元禄時代に生きた国学者です。また、停滞しつつあった歌の世界

に新しい風を送り込んだ有名な歌人でもあり「御当代記」により武家社会の様子を教えてくれ

たり、本郷に留まらず各方面の歴史、そして富士山噴火の前兆も記録してくれています。現在

の郷土史の基礎を数多く記録し、我々にプレゼントしてくれた陰の大恩人でもあるからです。

                               (新『東大下水』をたどる、予定稿より抜粋)

梨の木坂の近くで産まれ、今も住んでいる者として「戸田茂睡氏」に何故か昔から興味があり、

またその本郷界隈の居住地を調べる事を命題にしております。 詳しくは、もっと調査が進ん

でから改めて御報告したいと思っております。 文京区区長・教育委員会に、感謝!

※尚、暫く案内板が撤去されて無かった時期があるわけだが、原因は自然消滅とされて

いる「改撰江戸志」が絡んでいるのでは、と考えていましたが教育委員会からの回答では

特にそのような事はないそうです。

                                         <旧・昭和63年『梨木坂』 (梨坂)案内板>

『梨木坂』 (梨坂)  

  「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故坂の名とす」と、『改撰江戸志』にある。また、

『南向茶話』には「戸田茂睡(『紫の一本』の著者、1629〜1706) という名高い人の庵が、この坂のあたりに

あって、その前に大きな山梨の木が一本立っていたので梨木坂といった」とある。

 いっぽう、江戸時代のおわり頃、この坂のあたりは、菊の栽培が盛んで菊畑がひろがっていたが、この坂

のあたりから菊畑がなくなるので、「菊なし坂」といったという説もある。戦前まで、この近くに古いたたずまい

の学生下宿が数多くあった。                                    東京都文京区教育委員会 昭和63年3月

では、何故・・?。文面を、と再度お尋ねすると、改撰江戸志は、所蔵していないのと、典拠もとが

ハツキリした方が良いので、ということでした。

なるほど、小生もその考えに賛同します。                  報告 菊坂の与太郎 H1803/H1804

「文京区教育委員会」大好きです。

小生のような者の質問にもちゃんと答えて下さるしっかりした文京区教育委員会に。 感謝