『戸田茂睡と炭団坂』   

「炭団坂」が何時出来たのか・・・。実は炭団坂は昔からあった訳ではない。勿論、細い道筋のような獣道か下水路のような流れが、当時からあったのかもしれない、ここに素晴らしい資料を最近見つけたので紹介しよう。

 明和地所蠅依頼し、衂霏∧顕什盡Φ羹蠅行った「弓町遺跡第3地点」-集合住宅建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-である。この報告書の後半に素晴らしい資料を発見した。古くは元禄3年(1690)年から明治12年(1879)迄の古地図である。そこには、他の報告書より択一した手法で古地図との誤差を極力排し、界隈のとても良い資料になるであろう。遺跡調査報告のレベルはこう有って欲しいと思う与太郎であった。そのP78-図76と図77に注目して戴きたい。

 図76は 元禄16年(1703)頃『沿革図書』

 図77は 宝永元年(1704)7月頃『沿革図書』とある。

『沿革図書』によるなら 「炭団坂」が開通していた年代は、元禄16年(1703)〜宝永元年(1704)年の間には確実に開通している

その地図から炭団坂が御先手組大縄地以後、明き地を切り開いて作られた物である事が判る。丁度、小笠原佐渡守中屋敷が拝領開通という周囲の経緯もある事と思われる。だがここで一つ問題が起こる。

 そう小笠原佐渡守中屋敷が出現する江戸の初期。

『御当代記』に、元禄10年(1697)年「一頃日、丸山与力の下屋敷上り、本郷四丁目の水落流付かハり、弓町より梨木坂へ之道開」という。記録があるからだ。

 だがよく見れば『御当代記』には※二月十日の項に、詳細に記録されている。我々はまた戸田茂睡に助けられた。茂睡翁は本多家に仕官し、茂睡翁の子孫もまた本多家に仕え火消し与力として奉職していたことがあるかもしれない。これも家絶えたりと。■新撰東京名所圖會にはある。その頃森川宿の本多邸内に住んでいたのか、開通した事に興味を示し記述してあるところから、梨の木坂にもう住んでいたのか、または以前住んでいたので記録したのかまだ整理していないので判らない。調べが進んだら追って、報告しよう。

※なお、炭団坂開通の時期について・・・

「御当代記」の該当部分は、元禄10年閏2月10日から同年閏2月17日の間に挿入された記事なので開通時期は2月10日と、確定しない方がいいらしい、また開通した道も、今の段階では炭団坂と確定しない方がいいとの事である。もっと、文献資料や多方面からの史・資料の蒐集と検討に勤めたいと思います。

 (文化財保護係文化財調査員の方に二度も回答を頂きました、心より感謝致します。) H180424

 ●茂睡翁も「本郷が好き!」

勿論、茂睡翁はこの近辺で坪内逍遥の様に、居宅を頻繁に変えている。

判っているだけでも長男が生まれた頃の「津久戸八幡裏」・そして「梨の木坂」・「浅草、手向け野(東陽寺と待乳山の近く。)長男を亡くした「麹町」妻のお兵が病気となり、夫婦で養子に招かれその扶養に入った森川宿「本多邸内」そして火事で焼け出された分けでもないのに「本妙寺谷」「本郷お弓町とみ坂本妙寺に通じる三つ辻の屋敷内」へと移動している。

全体的に見てみると、茂睡翁は「本郷が好き!」の一人かも知れない。

※茂睡翁は70歳の今まで、当時多かった火事に遭ったことが無いのは観音様の御利益、と書き残していたとのことで戸田正彦先生より校正頂きました。御教授、心より・・・感謝致します。

 ■文京区区長・教育委員会の皆さん、ありがとう!!。与太郎は、憂いていた。以前「梨の木坂」には、戸田茂睡の案内板が立っていた。天理教の下、入り口の近くに立っていた案内板が突然無くなってからだいぶ立った。また、スグに立つだろうと思っていたが動きが無い。やっと今年平成18年3月に再建された。

これ程、日本文学にとっても、愛する郷土「文京区」にとっても重要な人物で有るのに何故なんだろう。周りの人は、気が付かないのではない、無くなったことに気が付いているがじっと茂睡翁のように耐えているのだ。「文の京」である。文京区がこんな事でいいのだろうか。

日頃、区の郷土に対する熱意。そして教育委員会の地道な努力には敬意を表しているが何故いつも、突然説明も無くまた、新設するでも無く、史跡案内として価値のある物、例えば「明月堂の前の街路樹の下にあった見おくり坂、反対に見かえりさかと彫ってあった地上部30cm位の石柱。」あれも都電軌道撤去の折突然来て、突然持って行ったと後で聞く。そこには本当に郷土に対する思い入れがあるのか・・・よく考えて欲しい。そして、是非「案内板」にしろ「石の柱」にしろ復元して、もとに戻して欲しい。と書きましたが、「梨の木坂」の標示板設置工事は、3月10日に再建して下さいました、ありがとうございます。

とても嬉しいです。丁度没後300年目の節目の年に復活とは。これも何かの縁でしょうか。

そんな思いがある。「本郷が好き!」  菊坂の与太郎より H1709-H180414

 ◎没後300年「戸田茂睡」『梨の木坂』標示板再建に感謝して!

                                                  H1803

■参考資料。

 峙歡遺跡第3地点」-集合住宅建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-衂霏∧顕什盡Φ羹

◆嵎元区史」 二版 近世

「戸田茂睡という人」         待乳山 本龍院 著 横田真精

ぁ峺妖通仗膕糧蟶瞳の栞」   万年山 東陽寺 著 西垣頴子

ァ惴翕代記』戸田茂睡著」    塚本学校注   発行 平凡社

Α岷軅仆充錙

А惴妖腸鳩録渣ニ高名物語』に見る人間茂睡− 戸田正彦 

                     青山学院大学文学部 日本文学科青山語文論文

─上田市立図書館デジタルライブラリー [御当代記] にて確認◆第五巻 39頁・40頁記載在り

戸田茂睡(とだもすい)著『御当代記(ごとうだいき)』全6冊の画像提供。本人自筆本

延宝8(1680)年5月から元禄15(1702)年4月までの記録・編年体一見の価値在り!