|
|||
■メモ・ さて、どれから書こうか考えている、最初は現代から ●文京区男女平等センターここ本郷真砂アーバンハイツには、H18年現在・文京区男女平等センターが一階 所在する場所である。 何故、現在と敢て書くかと云うと。名前がこれ程転々としたのも珍しいからだ・・・。 最初「婦人センター」、次に「女性センター」そして「文京区男女平等センター」と変化したからだ。批判も色々あるようだが敢て書かないことにしよう。表面的には、只の名称の問題とも取れるが、玉川一郎氏もそうであった様に、それ程その時代時代に於いて名称に対しても言葉を大切にし、森まゆみちゃんも真剣に地域の人も真剣に協議し、時代が意識を持った結果として置きたい。 さて、ここ小笠原佐渡守屋敷跡地の大きな門が在ったところには、公団が所有する以前には「秩父セメント梶vそして道路反対側の旅館「富士館」が一時期別館として看板を掲げていた・其の前が「川南工業梶vが所有していました。そこいら辺だけ詳しく書くと、長崎市の「川原村重」氏、其の前が長崎市の「川南工業梶vが所有していました。でも、「川南工業梶vって・・・? ●「川南工業梶vについて・・・昭和30年頃の所有者「川南工業梶vは昭和30年頃この地を所有し、三無主義などの関係で注目を浴びた事がある。 その事は、わずかにしか覚えていなかったのだが本郷界隈のバイブル、熊田氏の資料でハッキリして来た。 参考資料※熊田忠雄著『街を綴る』より閑話休題、早速調べてみた。「川南工業梶v川南(かわみなみ)工業といい、南極観測船<宗谷>となる耐氷型貨物船<地領丸>を造船した事でも有名。そこに至るには、製缶工場を設立し成功すると、新たにソーダとガラスの製造事業を始め、さらにコスト削減するには当時船による大量輸送が必要と知り造船にも目を向けます。そこで長崎県の香焼島【こうやきじま】に閉鎖されて、放置されていた松尾造船所を買い取り松尾造船所を再建し社名を川南工業香焼島造船所として変更したと聞き及びます。 川南豊作【かわみなみとよさく】が造船所を買い取る決断には、隠れた美談が潜んでおりました。さらに知りたい方は下記HPへ・・。豊作氏の写真と、経緯のHP紹介 https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00032/contents/005.htm ですが、社長川南豊作」は、(犬養首相を1932年5月15日に凶弾に斃した五・一五事件被告)「三上卓」らと、※国会襲撃、閣僚暗殺計画をしたとありました。この計 画は、昭和36年1961年12/12、計画が公安によって発覚し、川南を含む13人もがクーデター未遂事件で逮捕されたという事件のことです。・・・
当時の若者を否定的に風潮し世間は、三無主義と唱えたことがある。 (無気力、無関心、無責任)である。 それに対し川南は社会を風潮し、下のような三無(さんゆう)主義を唱えたという。 (無戦争・無税・無失業) ※具体的な内容は以下の通りである。 無税…官公庁の大幅人員削減による財政収縮と公社公団の民営化 無失業…大規模な公共事業の実施による失業者吸収 無戦争…ミサイルや宇宙兵器の開発による外国からの侵略の阻止 参照 Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%84%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ●三無事件(さんゆう事件)事件史探求・伝えている記事と当時の写真。https://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage307.htm ・三無事件(さんゆう事件)目的の説明としましては、 https://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19462000tiryou/tiryou.htm ※「宗谷」の産みの親である川南豊作は戦後A級戦犯として逮捕されます。 さらに昭和36年「無戦争」「無税」「無失業」の主張のもと、池田内閣の閣僚 暗殺と自衛隊による クーデターを企てた「三無事件」の主犯として,昭和39年の東京地裁で有罪判決を受けました。これが[破壊活動防止法]が初めて適用された判例となりました。と記載がありました。まさか、あの「大名屋敷」が「破防法」と関係が有るなんて思ってもみませんでした。今の時代に生きていたら、純粋に国を憂い、官公庁の大幅人員削減による財政収縮と公社公団の民営化を当時から歌っていた訳で、小泉政権には打ってつけの人物だったかもしれませんね。 但し、無税という点では大いに違いますが…。与
●「真砂遺跡」昭和62年頃調査・・閑話休題、真砂町の和菓子、老舗のご主人からの情報。御亭主の話では、真砂遺跡には「長い抜け道」があり、二方向に伸びていたという事である途中が既に陥没又は他のビル等の建築工事により埋没されているため、実証が出来ずに推測域を出ませんが、他の建築現場でもその道筋域に「抜け道」が見つかっていると云う。一つは水戸後楽園屋敷方向もう一つは東の方、加賀藩邸・農大方向、に伸びていたという。 ここで、思い出すのは弥生地区、農学部近辺の「森川氏」裏「水戸藩邸」である。大いに可能性があると思う。・・今後の調査に期待します。※尚、このHP表題の写真をこの度、提供して戴きました。 御主人は写真にも心得のある方で色々勉強させて頂いております。 ■断層から見る「佐渡守屋敷」 小笠原佐渡守屋敷地内の病院跡で、今も残る「レンガ塀」そこには旧・真砂医院がございますが、只今工事中です。偶然にも、友人と待ち合わせの為、歩を本郷三丁目に進めておりましたところその前を通りかかりました。工事の為、道路の方を掘り起こしており、地層断面を見ることが出来ましたので、報告しておきます。 上部よりアスファルト部・砂礫層18〜20cm、再び薄いアスファルト層3cm・関東ローム層約40cm下部一面、砂礫層となっておりました。尚、真砂医院の宅地内新築部分土台は、後から盛り土(関東ローム層)がされており、本宅の方はそれ以前からの物であったそうです。 次回は、もう少し遡って、宝永年間より安政年間、所有者が信濃上田藩の松平家に移っていく変遷を界隈の様子を探りながら調べてみたいと思っています。 ■今回のメモは、先達の各HPより学び短時間に纏めた物です。 参考HPアドレスは各文章中に表記しました。参考にさせていただいた方々には、この場をお借りしてその御苦労を心に留め、心より感謝いたします。 H1801 菊坂の与太郎 |