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「小笠原佐渡守屋敷跡」補完版 古庵屋敷 資料編 ・蛍域での発見 ■「信濃上田藩松平家屋敷」&「余語良沢屋敷」について 小笠原佐渡守屋敷の裏事情に書きましたように、その後この場所はまた上地され、宝永年間〜安政年間の間の所有者が「信濃上田藩松平家」に代わります。 この大名屋敷が宝永年間より小笠原佐渡守が所有し安政年間には、上げ地され所有者が信濃上田藩の松平家に移っていくという変遷過程がありますが。今までは、既に纏められた物を極力排除し、自分が実際過去に見た記憶や聴き取り、現場の古い写真、絵。地図等を中心に進めて来ましたが、限界があるので。アドバイス通りもっと、色々調べてみなければと遺跡報告書を中心に紐解くようにしました。すると、あるわ在るは、専門家の纏めた報告書のなかには幾つもの基礎素材がありました。 アドバイスありがとうございました。 特に今回のことで小生が注目したのは、「弓町遺跡第6-102図52」 と「弓町遺跡第5-43 図6」です。特に、52図・松平氏「日乗」の慶應四年辰年の屋敷見取り図の門位置に注目すると表門がやはり江戸城方向を向きその位置は例の旧春日通の道幅で指摘していた弓町本郷教会の幼稚園入り口側で、「教科書問題」で知られている・新しい教科書を作る会位置辺りのようです。そう云えば今も春日通で分断されている物の道だった形跡があります。そしてその道を延長していくと、現在の春日通を横断し「鰍m自動車」脇の、本多藩邸内・映世神社裏側にある検地石とほぼ同格な検地石が或る所に通じています。 ・●「小笠原佐渡守屋敷跡T」で書きましたように1871(明治(めいじ)4)年廃藩置県の後、この土地は土地の南側を売りに出し、二人の者がそれを手に入れました。代理人だったのでしょうか、その後、スグまた売りに出され分譲という形を取ったとのことです。旧・入口近辺の建物を、菊坂のM工務店で解体をした事がありちょっと普通の建物ではない造りだったとのことです。それは病院の建物の名残でしょうか?。 典拠元:弓町遺跡第6遺跡報告書 ・弓町遺跡第3遺跡報告書より 1879(明治12年)十五切絵図また、聴き取り調査をした結果、近くにお住まいの方が、古老から昔の様子について話を聞かされていた。その話は{この敷地の南寄り側は昔、「築山」がありそこで子供の頃朝から晩までヨク遊んでいたそうです。}また先に書いた「川南社長」のことをも覚えていらして「川南氏」がよく和服姿で、買い物に来た事を、お話下さいました。 商店街の別の方からは、本妙寺坂上の処に良く止められていた「菊坂の通り」のS商会、冷菓製造業使用の小型四輪を利用して、M警察の刑事達が、張り込みに当時利用していたこと、そして本妙寺坂下左空き地にはやはり、小生の拙い記憶と一致した『大きな水槽』があったとの事でした。 ■切断された大名屋敷 少し時間を戻りますが、1888(明治21)年根津遊郭の移転なに伴い病院も廃止され、前記のように大名屋敷の南側約870坪が、民間に払い下げられた。二分されたこの土地は「甲区」を浅草区七軒町に住むYと「乙区」を下谷区西黒門町のKがそれぞれ手に入れた。そしてスグに転売その後、分譲されたという。 この、春日通によって切断されたのは、各都電関係の本によると、市電を通すためで、三社が合併した「東京鉄道会社」という会社が経営し1907(明治40)年4月に「伝通院線」として営業したものだそうだ。その後1911(明治44)年に東京市により買収され、よく知っている「東京市電」が誕生したそうである。 ■『煉瓦塀』と『防火壁』 ここいら、真砂地区を初め旧弓町は明治大正期の煉瓦壁『煉瓦塀』と大木は崩壊しかけている物もあるが、今だ健在で当時の香りと、大きな敷地領域位置を堅固に守っていて古地図を見るのに大変参考になる存在だ。その中でも変わった物が二階の高さにも及ぶ煉瓦塀の存在で只、単に通行している場合、これは見逃してしまう存在だ。 現在お友達のO医療器具屋さんとY土地建物社の仕切りと、Mクリーニング店とんY硝子店の間に往世の姿が健在である。恐らく病院内の建物の敷地内の壁ではなく、病院敷地が売りに出されそれを買った者が、分譲地ヨロシク売りに出した後、又はそれを買った者が相談して防火の為に長屋を建てる際、『加賀藩の盲長屋』ヨロシク、二三軒おきに防火壁を拵えた名残ではないかと考えている。 C本郷古庵屋敷の存在 ・現在本妙寺坂と春日通の角地、ファイャーハウスの入っているサン ファミリー本郷と ライオンズマンション本郷・ダイヤパレス真砂辺りには春日通りが拡張する前「真砂湯」右隣の小川真由美ちゃんのガレージ(ペンキ屋さん)があった。 また、丸山へ方向へ、上れば(本妙寺坂方向/北)真砂湯・真砂裁縫学校・真砂小学校となっていた。 ・嘉永二年酉(1849)地図には※余語良琢屋敷(よごりょうたくやしき) とある元々寄合い医師余語古庵の屋敷で後古庵(コアン)屋敷と呼んだとある。 ※別古地図資料 ●東京名所図会 【余語古庵屋敷】 これは寄合医師余語古庵の先祖、寶永元年7月27日幕府より賜った物、坪数は426坪三勺ニ才。其の半ばを住地とし、其の半ばを町屋敷とす。同年11月15日町奉行の支配に属し、其の時より「本郷古庵屋敷」と唱う。※新撰東京名所圖會四八編P83明治四〇年発行に記載がある。 ●東京市史稿 15巻-671 【余語元善】寶永元年7/27 ・本郷御弓町 余語古庵 元善屋敷 坪数五百坪。 同文中に。「余語古庵内 新谷佐五右衛門 印」とある。※下、鴎外の『伊沢蘭軒』により、世襲二代目と思慮される。 ●森鴎外『伊沢蘭軒』【余語良仙】・余語氏は世古庵の号を襲いだものである。古庵一に觚庵も作ったか.当時武鑑には「五百石、奥詰御医帥、余語良仙、本郷弓町」記載有 余語良仙、本郷弓町、奥詰御医帥 首夏与余語天錫 与余語天錫 上巳与余語觚庵犬冢吉人 ■余語氏の塋域 駒込『竜光寺』に余語氏の塋域のあることを報じてくれた。 1695 第一「法眼古庵余語先生墓、元禄八乙亥年三月十九日卒、孝子元善建」 1735 第二「現寿堂法眼瑞善先生余語君墓、享保二十年七月十五日卒七十二」 1778 第三「天寧斎余語古庵先生墓、安永七年八月二十二日卒、七十歳」 1814 第四「拙存斎余吾良仙瑞成先生墓、文化11年四月四日卒去、六十二歳」 1848 第五「蔵修斎前侍医瑞典法眼余語君墓、嘉永元戊申四月十日」 の五墓を見たとある。 ◆引用中 そして天錫は或は瑞典かと云ってゐる。弟の書には竜光寺境内の図があって、余語の塋域は群墓の中央にある。わたくしの曾て訪うた安井息軒の冢子(チヨウシ)朝隆(テウリウ)と其妻との墓の辺である。程近い寺だから、直に往って観た。余語氏の諸墓は果して安井夫妻の墓の隣にあった。 しかし今存してゐるものは第四第五の二石のみで、第四には「拙存斎余吾良仙瑞成先生墓」と題してある。第一第二第三の三石は既に除き去られたのであらう。天錫の事は姑(しばら)く弟の説に従って置くとある・・・。 「伊沢蘭軒」森鴎外より ■ここで紫雲が引っ掛ったのは、「伊沢蘭軒」では※今存してゐるものは第四第五の二石のみとあった筈だ。今回調査した結果、下写真にあるように、風雪により傷んではいるが、なんと第一石があった。その証拠に横側面には元禄の年号が刻まれているではないか・・・。 そこには、1695 第一「法眼古庵余語先生墓、元禄八乙亥年三月十九日卒、孝子元善建」とあった、この一族が拝領した屋敷のことである。礼 ■大名屋敷の周辺 余語良琢屋敷(よごりょうたくやしき)●「余語良沢屋敷」についてこれは寄合医師余語古庵の先祖、寛永元年七月27日幕府より賜った物で、坪数は426坪三勺ニ才。其の半ばを住地とし、其の半ばを町屋敷とす。同年11月15日町奉行の支配に属し、其の時より「本郷古庵屋敷」と唱う。と◆新撰東京名所圖會四八編P83明治四〇年発行にある。 ■余語古庵屋敷(古庵屋敷)とは 余語古庵という寄合い医師で江戸期の御殿医をしていて拝領した屋敷の事を云い所在地は、現在のファイヤー・ハウスの入っているマンション一帯で、旧 「真砂湯」小川真由美ちゃんの家があった。古庵屋敷に住んでいた余語氏について森鴎外著「伊澤欄軒」に法眼(御殿医)余語氏が「長泉寺」と共に登場している。 ●森鴎外の『伊沢蘭軒』文中に・・・。その 蛍域は『龍光寺』であると書かれていた。駒込のお富士さんを訪ねた後、調査記録の為寄って見た、交番横から裏通りを通り、ほど無くしたら右に曲がると空間か急に開け、導かれるままに進むとそれらは、あった。 中に入ると、とても大きな葵の紋入りの鬼瓦があり、瓦の規模から当時の寺の大きさが偲ばれる。そこには文中にあったように。 ●その六十三 然るに詩集には春游の七律があって、其起には「東風送歩到江塘、翠浪白砂花亦香」と云ってある。又「上巳与余語觚庵犬冢吉人、有泛舟之約、雨不果、賦贈」の七絶さへある。「雨不果」と云って、「病不果」とは云はない。春游の詩は実を記したので無いとも見られようが、舟を泛ぶる約は必ずあったのであらう。或は想ふに、当時養痾中の外游などは甚しく忌まなかったものであらうか。 余語氏は世古庵の号を襲いだものである。古庵一に觚庵にも作ったか。当時の武鑑には、「五百石、奥詰御医帥、余語良仙、本郷弓町」として載せてある。 ●その六十七 次に「雪日余語古庵、木村文河、小山吉人来訪」の七絶がある。「雪花一日満園春。修竹無風伏復伸。回艇戴門交素薄。笠簑訪我客三人。」余語、木村は前に見えてゐる。小山吉人は初出であるが、未だ考へない。蘭軒の及門人名録に小山良哉がある。吉人は或は良哉若くは其族人か。 ●その六十八 尋で此年文化十年(1813)の冬の詩中に、二三の留意すべき応酬がある。 次に「雪日余語古庵、木村文河、小山吉人来訪」の七絶がある。「雪花一日満園春。修竹無風伏復伸。回艇戴門交素薄。笠簑訪我客三人。」余語、木村は前に見えてゐる。小山吉人は初出であるが、未だ考へない。蘭軒の及門人名録に小山良哉がある。吉人は或は良哉若くは其族人か。 勤向覚書を見るに、蘭軒は十二月十一日に例の湯島の薬湯に往った。「十二月十一日是痛追々全快には御座候得共、未聢と不仕候間、湯島天神下薬湯え三廻り罷越度奉願上候処、即刻願之通被仰付候。」余語等三人を引見したのは、自宅に於てしたらしくも聞えるが、或は天神下に舎った後の事であったかも知れない。 余語古庵をば特に「古庵様」と称してある。大府の御医師として尊敬したものか。「卿雲」は狩谷?斎、「市野」は迷庵、「服部」は栗陰、「小山」は吉人か。中にも卿雲吉人には、茶山が蘭軒に代って書牘を作って貰はうとした。独り稍不明なのは書中に所謂「市川」である。 わたくしは市川は市河であらうかと推する。寛斎若くは米庵であらうかと推する。市河を市川に作った例は、現に刻本山陽遺稿中にもあるのである。此年寛斎は六十七歳、米庵は三十七歳であった。 ●その八十三 蘭軒は菅茶山に告ぐるに、市野三右衛門、狩谷三右衛門、余語古庵の時々来り訪ふことを以てした。茶山は蘭軒のこれによって寂寥を免るゝを喜び、乙亥十月の書牘に「六右衛門、古庵様などへ一同宜」しくと云ってゐる。 ●その八十四 文化十三年(1816)に蘭軒は新に賜はった丸山の邸宅にあって平穏な春を迎へた。表医師に転じ、復宿直の順番に名を列することもなく心易くなったことであらう。「丙子元日作。朝賀人声侵暁寒。病夫眠寤日三竿。常慚難報君恩渥。却是強年乞散官。」題の下に自註して躄痿の事を言ひ、遷任の事を言ってゐるが既に引いてあるから省く。 わたくしは此年の事迹を考へて、当時の吏風が病体中の外遊を妨げなかったことを知った。蘭軒は三月二十四日に吉田菊潭の家の詩会に赴いた。「穀雨前一日、与木村駿卿、狩谷卿雲、及諸公、同集菊潭吉田医官堂、話旧」として七絶二首がある。其一。「書堂往昔数相陪。一月行過四十回。已是三年空病脚。籃輿今日僅尋来。」自註に「往年信恬数詣公夫人。試計至一月四十回云」と云ってある。穀雨は三月二十五日であった。菊潭医官は誰であらうか。わたくしは未だ確証を得ぬが、吉田仲禎ではなからうかとおもふ。「仲禎、名祥、号長達、東都医官」と蘭軒雑記に記してある。且雑記には享和中?斎長達の二人が蘭軒の心友であったことを言ひ、一面には?斎と蘭軒と他の一面には長達と蘭軒とは早く相識ってゐて、?斎と長達とは享和三年(1803)二月二十九日に至って始て相見たことを言ってある。菊潭は或は此人ではなからうか。しかし当時文化十三年(1816)の武鑑には雉子橋の吉田法印、本郷菊坂の吉田長禎、両国若松町の吉田快庵、お玉が池の吉田秀伯、三番町の吉田貞順、五番町の吉田策庵があるが、吉田仲禎が無い。或は思ふに仲禎は長禎の族か。 蘭軒は足疾はあっても、心気爽快であったと見え、初夏より引き続いて出遊することが頻であった。「会業日、苦雨新晴、乃廃業、与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同遊石浜墨陀諸村途中作、時服部負約」の五律五首、「首夏与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同集石田子道宅」の七絶三首、「初夏過太田孟昌宅」の七絶二首、「再過太田孟昌宅、与余語、山本二医官及木村駿卿同賦」の七律一首等がある。余語、木村、服部、石田、皆既出の人物である。天錫は恐くは觚庵の字であらう。太田孟昌は茶山の集中に見えてゐる。文化九年(1812)壬申の除夜にも、文化十一年(1814)甲戌の元旦にも、孟昌は神辺に於て茶山の詩会に列ってゐて、茶山は「江都太田孟昌」と称してゐる。孟昌、名は周、通称は昌太郎である。父名は経方、省いて方とも云ふ。字は叔亀、通称は八郎、全斎と号した。阿部家に仕へて文政十二年(1829)六月七十一歳にして歿した。孟昌は家を弟武群、通称信助、後又太郎に譲って分家した。孟昌が事は浜野知三郎さんが阿部家所蔵の太田家由緒書と川目直の校註韓詩外伝題言とに拠って考証したものである。山本恭庭は蘭軒が時に「恭庭公子」とも称してゐる。恐くは永春院の子法眼宗英であらうか。当時小川町住の奥医師であった。此夏病蘭軒を乗せた「藍輿」は頗る忙しかったと見える。 東側には「本妙寺」があり、古庵屋敷の隣、現本郷小学校(竜岡門側に在った物では無く、真砂小学校と元町小学校が統合した物)で位置は、また本郷遺跡の一つでもある。(梨木紫雲) 文京区『長泉寺』本郷 菊坂臺町 戸田茂睡 梨木坂 伊澤欄軒 森鴎外 本郷-菊坂の与太郎 天台宗 「富元山 瑞泉院 眞光寺」 昌泉院 清賢大僧都 桜木神社 本郷-菊坂の与太郎 @本妙寺谷界隈コース・■「小笠原佐渡守屋敷跡」U裏事情 本郷 菊坂の与太郎 |