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本郷 −菊坂の与太郎

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真光寺と『本郷薬師』

●基点<本郷三丁目交差点 >                               前々から何時かやらなければなあと思っていたことが幾つかあった。

□プロローグ 「富元山 真光寺 瑞泉院 半鐘」            一昨年(平成18年8月)深谷市で「市長記者会見発表内容概要」としてある発表があった。  【市消防本部保管の半鐘の里帰り】という、記事である、ほぼ掲載文のまま引用させて貰う。  続きまして「深谷市消防本部保管の半鐘(はんしょう)の里帰り」についてご説明申し上げます。・・平成17年3月、当市の消防庁舎が新たに完成した際に、旧深谷市消防庁舎の倉庫の中から半鐘(はんしょう)一つがみつかりました。しかし、職員や消防のOBに尋ねても、その半鐘の来歴は不明でした。 ところが、半鐘には作製した経緯を示す文字が彫りこまれていました、それらを判読したところ、「富元山真光寺 瑞泉院」(ふげんさん しんこうじ ずいせんいん)という文字が読めました、そこから現在、東京都世田谷区に現存するお寺に由来することがわかりました。また宝永4年(1707)年に作製されたという記述もあり、今から約300年前に作られた半鐘ということが判明しました。 さっそく、真光寺さんに連絡したところ、「是非とも、もらい受けたい」との申し出があったことから今回、半鐘を真光寺さんにお返しすることになりました。※深谷にこの半鐘がいつ来たのかは不明ですが、今回久しぶりに里帰りし、本来の場所に戻ることになりました。・・と云う記事である。                                          

そう『眞光寺』について語ることである。といっても「本妙寺」ならばああアレね。と話が早いが知らない人が多くなったのではないだろうか。「本郷のお薬師さん」があったお寺という方が分かり易いかも知れない。以前「東大下水(支流)」の項で触れたと思うが昔、東大下水の上に小橋が架かっていた「別れの橋」とか「涙橋」と云われておりその川を境に、罪を許された罪人がお解き放ちになったと聞く。近親者関係者や知人との別れをした場所で「橋北五丁目」側を『見返り坂』「橋南三丁目」側は見送る人側で『見送坂』と云われていた、尚、当時近くには荒れ寺がありそこは「処刑場」や「晒し場」に使われていたことがあったと云う。その荒れ寺とは・・・?         そうそれが「眞光寺」である。

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『本郷三丁目』丸の内線

●基点<本郷三丁目交差点 シリーズ >                          丸ノ内線『本郷三丁目』駅 + ■名曲喫茶『麦』

昭和29年に開通した赤い電車「丸ノ内線」の本郷三丁目駅構内から長い階段を上がり、改札のある踊り場に出る、そう本郷三丁目は今も昔も出入り口が一つである。まだ、切符が堅い厚紙の時代の話である。改札に向かう途中今は洗面所になっている位置に、網入りの曇りガラスが上半分についた観音開きの鉄の扉があった。・・ヨク挨拶する駅員さんとは仲良しだった、ある日のこと、通学帰路の改札で、リズムカルなキップを切る音に見取れていると、思も掛けぬ声を掛けてもらった。駅員「ボク・キップ切ってみたいかい・・。」与太郎「エエ、いいの〜、ヤラセテヤラセテ」と目を輝かせたというわけです。囲いの中に入れて貰い、重い鉄製の入札鋏。全然いい音がしません。その内慣れてくると何とか上手く切れるようになってきてブカブカの帽子をかぶせて貰い、今風に云う「即席体験学習」ていうところでしょうか。 富時のお客さんの大人も、駅員さんゴッコに付き合ってくれ、嬉しそうにキップを差し出してくれるのでした。・・という感じでより駅員さんと仲良くなったのです。その数日後、麻の布袋を両手に持っていたあこがれの駅員さんと再会。例の鉄の扉を開けて出た駅員さんの手招きに従って、外(中庭)を覗くと気持ちの良い空き地があった。 小春日和で暖かい日であった。人が暫く入っていないからであろう、タンポポが一面に黄色い花を咲かせ、そのギサギザの葉っぱを気持ちよさそうに伸ばしていた。印象的であった。ドアのある壁には麻の小袋がいくつも積まれ中から使用済みのキップがこぼれ出ていた、「アレ、キップ」というと、「欲しいだけ持っていっていいよ。」「また、遊びにおいで」などと幸せな言葉を掛けていただいたものである。そう、暖かいまなざしをもった駅員さんが昔からいらした本郷三丁目駅であった。  そこでは後日、姉と四つ葉のクローバーを探したり、ムラサキのアザミを摘んだ思い出がある。その一角に土の小塚があり脇にお稲荷さんか何か良くは分からないが、朽ちかけた小社が右斜めにいまにも転がりそうになっていたのを見つけた。子供ながらにそれを小山の上にあった元の形跡に合わせ、起こし上げた記憶がある。

だいぶ話も寄り道をしてしまいましたが、改札を出ると空間があり、長細い券売機が※円柱(ピンク色・工事中はオレンジ色・そして大理石風と変わって行った。)の裏手にありました。それらを左手に見ながら右、本郷通り側に出ると。 左手側には写真の電話ポックスがありました。勿論、最初は 本郷 弓町本郷教会 楠木 女子美弓町校舎コースで紹介した「ベージュ色に塗られた公衆電話Box」がありました。 首から上しか見えないタイプで、ドアのノブが無く、取っ手の部分が円く、大きく抜かれており、ゴムでモールドしてあったタイプです。                 

その左側に渡辺さんちの板塀、後コンクリートブロック塀の続きや「本郷茶廊」そして、「ニュー・シャンゼ」立ち食い蕎麦「もっちゃん」老舗水引を製造している「若井佐吉商店」ニューフォト(竹田フォト)」ここは何度か道を挟んで三回は移動していると思う。日光屋西村ビル・のキヨスクの売店のような「西村書店」があった。右には「本郷英語」・番場さんの喫茶「jr・ジュニア」や「タナベ美容室(現在も春日通り沿いで生業中)」、ここは「芙蓉ドラッグ 駅前店」「自販機コーナー・携帯屋」になったが、そこには間口が広かった「野村レコード店」があった。そして隣には、大津ビルの地下に与太郎にとって忘れられない場所が今でも在ります。

●名曲喫茶『麦』  

初めて喫茶店というものに入ったのが、高校暁の時でした。東京Hi-Y(ハイスクール・YMCA)夏のキャンプ・サブリーダー(※CIT)面接に主事から指定された場所でした。   赤い絨毯の階段を降り、程なく心地よいカウベルの付いた硝子小窓の沢山付いた木のドアを開ける。右にシューベルトがピアノに向かい作曲していて居眠りをしたのでは・・・という(仲間内で)噂になった。ペン頭跡のあるようなアゴの胸像写真が迎えてくれる。左に折れ、さらに階段を降りる、右側の部屋は会計・調理関係、公衆電話、レコードなどの音響設備などがあり。テーブルはダイニングキッチンのような高いテーブル部屋と左側、応接ソファーと、低いテーブルのある部屋とがある。与太郎は、左の部屋が好きである。座り心地の良いソファーに座るとまず、壁面上に架かっている東京大学管弦学部の協奏曲混成のオーケストラパネルに目が行くことであろう。これは、高校の時以来ず〜っと、ここに架かっている。店内で最初に驚いたのは、足の下の赤い絨毯を、奥から床に、なんと膝をつきながら丁寧に雑巾がけしてくるお店の方がいた。正直驚いた、どうりで地下の喫茶店にしては清潔であると感じた。そう、そしてそれが「麦」の先代マスターとの出会いであった。この河田氏は『日本人の攻撃性』などを初め幾つもの本を書かれている作家先生であり、最近の出版物には『内なる祖国へ. ある朝鮮人学徒兵の死』原書房などヨク海外に取材に行かれている。早大出身とのことで最近で云うと、森まゆみちゃんや坪井節子(節ちゃん)と同じ、大隈 重信門下であるようだ。とても温厚な紳士で私のような者にも気さくに話しかけてくださるようになった。感謝である。マスターの入れるブレンド珈琲がまた美味しい、コクがあって香りがあって、奥深い物がある。それ以来時間があると、また人と会う時は、利用させて貰っている。とても落ち着きのある場所である。店を出て隣にオリエント商会の小里スポーツ店が角にありました。目の前の本郷通りに出て向かいには日本信販のビルが見え、左に目をやるとその先が本郷三丁目の交差点です。 交差点に近付きか祢やす前から、本郷三丁目信号を渡った角には交番が在り。昭和年代には有名な「髭のお巡りさん」がいました。サングラスを着用して一見してコワモテのお巡りさん、ですが。キチント挨拶をすると、たとえ相手が小さな子供でも、キチント挨拶を返して下さったことを思い出します。 大人は、お巡りさんを見るとビクビクしていましたが、そのサングラスの奥に優しい瞳が見えているのを子供等は、ヨク知っていたのでした。そしてズット後になってあの素敵なお巡りさんは、「本富士警察署」の「末松巡査」と云う名前だと聞きました。みんなを守って下さって、ありがとうございました。今でも感謝です。さて、

■退転した『眞光寺』 その交番の裏手に、今も「赤い二段の提灯の鳥居」があり昔は、眞光寺の領地が旧真砂小学校(現。本郷小学校)近くまで広がっていました。現在は左奥に赤い『本郷薬師』が見えます。 そう、ここは広大な天台宗 眞光寺の敷地があったのでした。東京大空襲で焼け、惜しいことに現在は世田谷に、退転しています。本来は太田治世の大昔からここに在ったお寺でした。戸田茂睡翁の「紫の一本」によれば先程の川(東大下水(支流))がその領地の境と記されています。ただ、「大昔」と一言で云ってしまいましたが、どのぐらいか調べてみましょう・・・。

◇眞光寺と『本郷薬師』

       

※写真左が『本郷薬師』。 右奧 眞光寺本堂

『本郷薬師』が宮居していた眞光寺は、天台宗本部の解説によると嘉祥2年 (849年)創建と在りました。唐への約十年に及ぶ求法の旅から慈覚大師こと「円仁」が開山したと伝わり(『行記』847(承和14)年12月14日。当時54歳で)日本に帰ってからスグのようで。慈覚大師が関東で開いた寺は「209寺」もあり、その内の一つが眞光寺だそうです。

『本郷薬師』伝えによると「江戸御府内では当時、瘧(おこり/マラリア)が流行。病に倒れるもの数知れず出た、民は困り果て薬師さまに祈願してやっと治まったと聞く。その経緯(いきさつ)は、薬師如来のお告げにしたがって「どぶ」をさらって草薮を焼いたら,流行病がおさまったという・・。民はこれに感謝し「この地」「薬師堂」を建てた。但し「この地」については、どうやら加筆しなければいけないようだ・・。上は、明治22年「菊坂の通り」が開通後、大正期に入り角に出来た『本郷勧業場』により流れが移動、上野の「東京勧業博覧会出品残り物等を販売した、百貨店の元祖」である。後、宇野千代が女給をした西洋料理の『燕楽軒』として、そしてこの燕楽軒の前の路上では陸軍大将福田雅太郎を狙撃した和田事件などがあったり、日本エスペラント学会の月例会が開かれ、来日したフィンランド公使 ラムステッドエスペラント講演会がここでおこなわれた。という有名な場所でもある。また東京国際クラブでは農業の講演をしたが※宮澤賢治がそこに出席していた。エスペラントと賢治先生についいては、ガントレット氏が係わった「徳川頼貞オルガン」の項でもう少し触れたいと思う。

■時代背景:綱吉の治世1661〜1680、この頃天候は不順続き(大雨・大風、水・冷害)そして流行(はやり)病と、日本中で農作物の不作と不運続きだった。当時、それらの自然現象を「天罰」と受け止める風潮があり、何かあると神仏に頼ることが多かったようです。             ・1670(寛文十)年。日本でも、エジプトのピラミッドに匹敵する大工事『箱根用水』が完成した年ですが、IT情報によると当時、近郊でも疫病が流行っており、加須市では七月に疫病除けの為、各戸を回り「夏越祭」。秋には「前夜祭と大祭」に舞をこの年から奉納し始めたそうで今でも<北小浜の獅子舞>として続いていると聴く。他にも、我が国の農業において「病虫害防除技術」が登場したのはこの1670年の寛文十年、最初は鯨油や菜種油を水田に撒きウンカを防除したのが始まりと云はれている。 告げを聞いた者が、その病虫害防除技術を知っていたかは皆さまの判断にお任せしますが当時そのような知識が主要旧街道筋である「本郷」に、いち早く伝わって来ていてもなにも不思議はないとも思います。当時。羽斑蚊[はまだらか]はそうやって退治されたようです。でも、問題は別にありました・・・。

●『本郷薬師』当初は、眞光寺境内の外に在った

【出涸らし亭主モード】女房子供の飲んだ後にさらに入れる、タンニンも渋も少ない、薄〜い白湯に近いお茶を啜る状態、そう掃除機暴走族に追われながらも。片隅に追いやられてもめげず、粗大ゴミ扱い化された与太郎爺状態で)ある日、陽を背に浴びながらいつものように古地図を広げて昔空間散歩を散歩していました。すると1671(寛文11)年新板江戸外絵図で目が留まりました。基点<本郷三丁目交差点 >で旧「か祢やす」側の近藤屋敷内の菩提寺「大安寺」(後に二分する講安寺の開祖側に吸収されたお寺)の記載があります。そして次に本郷通り沿い「日蔭町」寄りに目を転じると、「薬師」の表示が、ホントかな〜、測量方がまだ定まっていなかった古地図は結構いい加減なところがあるからな・・・などと、ブツ・ブツ。 本郷を時代によっては本江と書いてあったり変体仮名のように結構当て字的な要素があるしな〜、などと呟いていた。ムリも無い、それは如何にしてもこの地域からココにかけてズレているなあ〜古地図には良くあることだからです。その時は儘(ママ)と様子を見ることにしました・・・。 が、後になって、そのことで蒼褪める事になったのです。

 与太郎、蒼褪める。

それから幾日、幾年経ったことでしょうか、佐渡の守屋敷靴隆愀犬埜徹嘆杏澆海噺翕属紊陵掌貉瓩搬綢悗地のことで東京市史稿を調べていた時のことでした。ふと、手が止まりました「ヒット!」そう、以前誤記載ではと気になった「薬師堂跡」についての関連記述でした。やはり「本郷薬師」は眞光寺境内へと移動していたのです。あの大横町で出て来た西の丸表坊主、・・・云々。よくよくその跡地の周りの記述を読むとさらに明確になってきました。その跡地の周辺状況表記には、●東・道●西・道●南・町屋●北・町屋・・・とあり旧中山道と今の本郷通りとに挟まれた地を指しているのを確認しました。つまり昔は、現在「ソフトバンクの携帯屋」が一階に入っているビル、最近までは「富士銀行」だった処に、近藤屋敷側/今の藤むら側にかけ、木戸マークが描かれており。旧・中仙道の側が東の道。そして西は今の本郷通り・道。左右南北共に町屋に挟まれている処。★ガーン例の誤記載かと思っていた場所でした。その上さらに・・そこは紛れも無く例の東大下水(支流)の通っていた辺りでありました。そう、思い出して欲しいのです前記の経緯(いきさつ)で、江戸時代に瘧(おこり/マラリア)が流行った時に,薬師如来のお告げにしたがって「どぶ」をさらって草薮を焼いたら,流行がおさまったという。そこで民はこれに感謝し、※この地に薬師堂を建てたという。

この地とは、本郷通り沿いの大下水の通っていた辺り偶然にも【現・本郷薬師参奉会の会長さんがお住まいのビル】辺りに当初「薬師堂」が建てられていたという事になるわけです。◎此れも何かの御縁、非科学的であり説得力も何も無いが、導きであろうか、道路交差点側に出た「か祢やす」と同じに、不思議なことが起こっていたのでした。エッ、何とも思わない感じないってウ〜ンでは、か祢やすの漢字バージョンのお話はお聞きになったでしょ。あの裁判になったお話名裁き、そのお店の近くにもやっぱり咎人の関係云々があり、ちゃ〜んと近くに「別れの橋」「涙橋」があったというのは、イカガなもんでしょうか。  やっぱり偶然かな・・・・。

この本郷薬師参奉会会長さんは、その経緯(イキサツ)を調べ住まいの場所を選んだわけではないようです、でも、何故か「元薬師跡」に現在住んでいると云う事実があります。

今年の初薬師の前日でした、幸いにも薬師さま調査に訪れていて会長さんとお話しすることが出来ました。与「昔の地図を見ると、お薬師様が通り(本郷通り)の反対側つまり、本郷通りを夾んで向こう側にあったようですが。何か古老の方等にお聞きになってらっしゃいますか・・・。?」 会長「いや、そんなことは聞いたことが無い。ここに来たのは戦後だから」と仰っておられました。だからこの事をご存知無かった事を、敢えて証言して擱きます。・・・菊坂の与太郎こと(梨本紫雲) 

   

●さて『眞光寺』には色々な呼び名があるのです。?     なんだこりゃよ〜。というわけで。 与太郎・・資料「眞光寺」の名称整理 (進行中)

◆本郷「眞光寺」 849(嘉祥二) 年 慈覚大師が開祖 

・本郷三丁目にあった「眞光寺」は、 849(嘉祥二) 年 慈覚大師が開祖した物。

■「見送り坂・見返り坂」時代・・その後、寂れ。【荒れ寺状態になっていた。】

・本郷『眞光寺』は・荒れ寺時代に入り、罪人斬首の晒し場にもなっていた。  

・当時、数名の坊主が境内に勝手に庵を作り住んでいた模様である。

・1630(寛永7)年10月5日に藤堂 高虎 死去。享年75。後を長男の高次が継いだ。                   天海僧正より法号として「寒松院殿道賢高山権大僧都」が贈られた。

・1631(寛永8)年 津の寺町南端の潮日山(願王寺)「昌泉院が→寒松院」と改称。

■本郷『眞光寺』 ・小伝馬町に在った「東光院」※(明治期には、浅草に移動したお寺)の僧 で 「清賢法印」(後の清賢大僧都)1672 (寛文12) 年9月19寂は、 藤堂高虎が懇意にしており『祈祷祈願』を一手に引き受け住む屋敷をも高虎の懇意に蒙っていたとあった。・・・・ある時、「高虎」と「天海」との会話の話題に出たのか「清賢法印」の事を天海こと後の『慈眼大師』が聞き及び、東叡山(寛永寺)草創の時節柄「清賢」にも一寺取立てようではないかとの第一世天海の言「絶えるを待つよりは、廃れるを興すは出家の本意」と、寂れていた本郷『眞光寺』は、藤堂家の助力を得て再興。

・ 「清賢法印」 は 藤堂家の助力により再興する。よって本郷『眞光寺』の中興の祖は「藤堂高虎也」と云うことになる。そこで、本坊建立には藤堂家祈願所に相応しく、大阪の陣にて使用した小屋の木道具を用いたという。そして本郷『眞光寺』は、藤堂家の祈願寺・裏菩提寺となったとあった。引用「東京名所図会」等

 ※調査(謎1)・正保4年 (1647年) 諸堂宇、 ※及び天神社が落慶されました。と天台宗東京教区の公式サイトには説明がされていましたが確か1691(元禄四)年、現在の本郷櫻木神社が移動してきたのではと・・・思っている、それについては、もう一度調べ直してみます。  ・でも何故、天海との話題に「清賢法印」の話が出たのか、また何故「藤堂高虎」は「清賢法印」に住む場所まで提供し祈祷祈願を一手に引き受けさせ、懇意にしていたのか。・果たしてその関係接点は・・・如何に?

★★眞光寺「昌泉院」・本郷「昌泉院」 ・・・天台宗東京教区の公式サイトによると

・1647(正保四)年 東叡山(寛永寺)第二世より院号を賜り、天台宗寛永寺末となる。   

諸堂宇、 及び天神社 (現在の本郷桜木神社か)? が落慶されるとある。 

■天台宗寛永寺末となる。

・1647(正保四)年極月 東叡山(寛永寺)第二世 久遠寺院宮の御令旨にて【山號・寺號・院號】を賜り御末寺に相成候、とある。【新撰東京名所圖會】 

・「台東区史」によると、P536−東叡山門主の項 P538に−歴代門主一覧があり、そこに

第二世 久遠壽院准三后公海 在職12年 寿89歳 花山院忠長の子、元禄八年9/19示寂 と記録されていた、つまり眞光寺は『公海』により新たなる【山號・寺號・院號】を賜り、寛永寺末となったわけである。

 ※調査中(謎2) では、その『公海』により賜った本郷『眞光寺』【山號・寺號・院號】とは・・・?

       a)文章等の前後からすると、冨元山・昌泉院・眞光寺でしょうか・・?

       b)別当【医王山 正運寺 昌泉院】でしょうか・・?これは調べていくうちに新たに       見つかった物です。その典拠元は、根津神社関係「文京区神社誌」

■藤堂関係「寒松院」は二つある。(「上野」と三重県「津」)

・三重県「津」では 潮日山昌泉院が→寒松院」(願王寺)に、変わりました。

・上野の寒松院」は、高虎が亡くなる前まで昌泉院」と呼ばれていたのでしょうか。

・はたして昌泉院」その由来は、どのようなものなのでしょう・・?

※寒松院M住職の紹介で、寛永寺に文書による問い合わせをしました!! 回答は・・

ヾ┥庄,魴てたのは、高虎氏が亡くなった後であり。第二世 久遠壽院准三后公海により賜った新たなる【山號・寺號・院號】などは上野彰義隊の戦いで資料を失い詳細は分からないそうです。「真光寺」へ問い合わせては・・と言うアドバイスを頂きました。

△修靴篤瓜に尋ねた「千駄木御林」についての回答ですが、特に指摘されたような名称変化時期に、事変は無いとの回答でした。 寛永寺宗務所 S氏より

 ※調査(謎3)

・そして高虎のお膝元、三重県津にも「昌泉院」(津市案内にあり。問い合わせ)・・江戸初期、津城下に高次が建てたもの、その【山號・寺號・院號】とは。 

回答:津市教育委員会より

.『願王寺』と回答を頂いた。・・・※調査(謎3) 尚、開祖は二代藩主の高次氏の名と、その創建には「清賢大僧都 (清賢法印)」の名があり 清賢法印 係わっていたことがわかった。

「清賢大僧都(清賢法印)」とは・・・ ※調査(謎1)関連 

【謝辞】三重県津市 教育委員会の回答と共に、今回貴重な何点かの資料を提供して下さった、誠に感謝である。それを読む内に藤堂家と「清賢大僧都(清賢法印)」の接点が見つかったのでここに、報告しておこう。 「清賢大僧都(清賢法印)」先の様に※新撰東京名所圖會・ 小伝馬町に在った「東光院」(明治期には、浅草に移動したお寺)の僧 で「清賢法印」1672 (寛文12) 年9月19寂とだけ載っていたのですが実は、津市史 第五巻P416「昌泉院から→・・・寒松院」の項に由緒 「この寺は藤堂氏第二代高次が襲封のはじめに創立し、昌泉院といったが、高虎の霊を祀るようになって、そのし号から 寒松院 と改称した。★開基は 清賢大僧都 といい、藤堂仁右衛門高刑の実弟で、藩主高次の従弟である。」と分かった。 

謎は解けた。高虎の祈祷祈願を一手に引き受、懇意にしていたのか、納得。

■別當兼帯 本郷「昌泉院」と「根津神社の関係」・・清英法印           ※根津神社関係「文京区神社誌」P135に、『薬師別当昌泉院』の記載あります。同頁、下の段には昌清英法印と誤記載の可能性有り。※但し「文京区神社誌」の誤転記ではなく、元本が原因でありそれらの資料を、一字一句間違いの無いように纏めて下さったのが現・神主の『内海住職』達、とても歓迎すべきことでまた感謝すべき記載方法であろうと思います。・また同誌のP82には【別当 医王山 正運寺 昌泉院】天台宗 東叡山末とあり与太郎は、医王山山號注目している、それは※新撰東京名所圖會のP46に●眞光寺 薬師堂の紹介の一文に堂前「醫王山」の扁額ありとの記載があるからです。※但し正運寺に???、(学芸員の方にも相談、確認作業中。) H2007

・謎は解けました。やはり 本郷の真光寺「昌泉院」が、その別当として千駄木の「昌泉院」に遷座した際の名が【別当 医王山 正運寺 昌泉院】天台宗 東叡山末と云うことでした。 H2207

・1658(万治頃)年・千駄木の太田摂津守が下屋敷に賜った頃、同所植木屋六三郎の所に移されたことにより元根津と云う。それ以前は村民等により守られて来たが、祭事の折は當寺 本郷「昌泉院」◆「清英法印」が別當とし、これを兼帯した。 そして當寺の三代までが舊・根津権現元根津の神事に協力した記録がある。 文京区史P762等。

・1669(寛文九)年・上野寛永寺 

・1670(寛文十)年庚戌・薬師堂建立 森川町本多藩 正勝の時「黒田勘解由」ヨリ2萬3.200坪

・1671(寛文11)年 新板江戸外絵図 久永飛騨之守  真砂遺跡第甲賄世傍載。近藤屋敷内の大安寺「大アンシ」表示等。眞光寺「シンカウシ」表記・本郷通りと旧中仙道に挟まれ旧薬師跡位置は「薬師」、眞光寺。斜め対面にあった。

・1672(寛文12)年。眞光寺、中興の祖、「清賢法印」 寂

・1704(宝永元)年12東叡山(寛永寺)第三世「一品守澄法親王」より別段「瑞泉の院号」を賜る。 瑞泉院 誕生 1706(宝永三)年  舊別当昌泉院の三世【宥雄】は本郷瑞泉院へ転じる。

元根津より→根津権現を現在の地へ造営後遷座、

以前は別当として 昌泉院が元根津の神事を委ねられ第一世が【清英そして・第二世【智澄】※新撰東京名所圖會では[清澄]が相次いで奉仕して来た造営完成の時、別当昌泉院の三世【宥雄】を任じようとしたが若年二十歳の為、僧正昇進成の時までと本郷瑞泉院へ転じたとある。その為【実興】「東叡山常照院第四世」が史実上、根津権現中興の一世となった。また同宝永年中の記録に神主【伊吹昌寿】、舊別当昌泉院復飾として【井上貞兼】の名がある。

・1707(宝永四)年04/11 富士山大爆発 「富元山真光寺 瑞泉院」刻の半鐘が奉納された。 追記※へ

・1716(享保元)年八代将軍『吉宗』に変わる。

・1717(享保二)年「大岡越前」奉行に登用される。

・1720(享保五)年9月法要・六十六部衆「十一面観世音菩薩」富寺第四世 ◆法印尚賢

・1722(享保七)年 小石川養生所

・1748(延享五)年四月松崎稲荷 勧請

△1848 第五「蔵修斎前侍医瑞典法眼余語君墓、嘉永元戊申四月十日」
・1853(嘉永6)年癸丑 12月20日(1854年1月18日)に前田利友死去。
 享年20  弟の前田利聲が養子として後を継いだ。

◆古庵の屋敷は、1704(寶永元)年7月27日余語古庵の先祖が、幕府より賜った土地1849酉(嘉永二)年地図には※余語良琢屋敷(よごりょうたくやしき)とある元々寄合い医師余語古庵の屋敷で後古庵(コアン)屋敷と呼んだ

・嘉永6年 徳川家慶(12代将軍 享年60)

●1854 (嘉永7) 1月27日 元富士「富士浅間大神」
・元富士「富士浅間大神内」 手水鉢には1854(嘉永七)寅 刻あり。
◎1854 (嘉永7)年11月27日●安政に改元 =安政 元
・嘉永7年  ペリー提督が4隻の黒船で浦賀沖に到着
(安政元年閏7月27日)(グレゴリオ暦1855年1月15日)

★・安政の地図には「根津権現昌泉院」と、記載あり。

・薬師如来は「本郷薬師」 として、明治・大正・昭和初期までの続き、 泉鏡花の 「婦系図」、樋口一葉の日記にも賑やかな情景が描写されている。  この薬師如来は、 慈覚大師の一刀三礼の彫刻によるものと伝えられていました、このような隆盛を極めた眞光寺でしたが・・・。

・1945(昭和20)年3月 10日の東京大空襲により一夜にして硝煙と化し、 堂搭伽藍のすべてを失いました。 幸いにして、 薬師如来像、 阿弥陀如来像の頭部は、当時の住職 ◆「光頴」が校長を務めていた「旧制駒込中学校」※元根津権現近くの鉄筋校舎の金庫や、 防空壕に納めてあり焼失をまぬがれたとありました。ヨカッタです。元根津、昌泉院の関係があったからこそデスね。

・1951(昭和26)年 寺院規則の一部変更の手続きを経て、 現在の世田谷給田の地に移転しました。 焼失をのがれた薬師如来、 阿弥陀如来像頭部だけからの戦後第一歩だったそうです。   ・移転後の本郷には、神仏分離後の「櫻木神社」機山館裏の墓地の一部と薬師堂、 露座の十一面観音像が残されている他は、 全て宅地になっています。

・1978(昭和53)年 地元の商店会が中心となって、「本郷薬師奉賛会」 が発足し、 薬師堂が再建された、そして 毎年1月8日には初薬師が今でも開かれています。 戦後、 前住職◆「光存」の努力と協力によって、 復興がなされました。

・平成4年境内地の買収 (以前は借地でした)。

・平成6年新本堂新築と悲願が達成されました。

・昭和 54年からの復興も終止符が打たれました。

・現本郷薬師参奉会の会長さんがお住まいのビル当たり東大下水(支流)の通っていた形跡有。

●眞光寺 慈覚大師が開祖

・本郷 真光寺 東叡山第二世 「公海」 ※ 第二世 久遠壽院准三后公海 在職12年 寿89歳 花山院忠長の子、元禄八年9/19示寂より院号(昌泉院?)を賜り、天台宗寛永寺末となる。

・本郷 瑞泉院 真光寺 東叡山第三世 「守澄親王」 ※第三世 本照院宮前天台座主 一品守澄法親王 在職27年寿48歳 後水尾天皇第二皇子、

延寶八年4/26示寂より別段「瑞泉の院号」を賜る。1704(宝永元)年12

■番外関連  津藩・昌泉院→寒松院(2代藩主高次氏、1602年1月4日(慶長6年閏11月11日) − 1676年12月20日(延宝4年11月16日)が「清賢大僧都(清賢法印)」と共に「昌泉院」として創設、のちに天海より送られた高虎の諡号(シゴウ)・院号をとって寒松院と改称しました。)

・2代藩主時代1630 - 1669

・願王寺[昌泉院]に祀ることになり、高虎の諡号(シゴウ)をとって寒松院と改めたhttps://www.gtoweb.com/native/spot10_6.htm  西来寺HPにて

■典拠元

※江戸砂子 1732年 ※御府内備考 ※武江年表 斉藤月岑 著 金子光晴

※校訂・東京都公文書・東京市史稿 ※文京區誌 ※江戸10万日全記録 明田鉄男

※加賀殿再訪  西秋 良宏 編 ※新撰東京名所圖會

■レファレンス協力

※東叡山(寛永寺)  ※寒松院(上野)  ※根津神社  ※眞光寺 瑞泉院

※天台宗東京教区 宗務所・・他

※「台東区史」・各遺跡調査報告等参照させて頂きました。 

※東京大学総合研究資料館 東京大学

※三重県津市教育委員会   ※文京ふるさと歴史館の学芸員の方々です。 感謝

追記、■深谷市半鐘関連

※1 宝永2年 (1705年) ご分家 (久居殿3万石) も檀越となられた、奉納品の可能性あり。

尚、【かんもん北九州ファンクラブ】に於いて行われた注目すべき古文書勉強会の報告が掲載されていた。第3回古文書読書の会報告(2月3日) 報告:大鬼 諌 若殿様(小笠原忠苗)が参詣した安永3年 1月8日・9日に参詣した4寺院について別途調査の補足説明。・・・として

1 参詣した4ヶ寺の調査(当時の所在地を江戸 切絵図=浅草絵図=嘉永6年(1853)版で)報告  安永3年1 月8日の条 広徳寺 海禅寺 泰宗寺に 参詣 1 月9日の条 神田明神、本郷瑞泉院に参詣 ・・・本郷瑞泉院 (過去の記録より瑞泉院関係を抜粋) ・宝永3年(1706)旧別当昌泉院の三世「宥雄」は本 郷瑞泉院に転じる。

・宝永4年(1707)富士山大爆発 「富元山真光寺瑞 泉院」刻の半鐘を奉納。

・昭和51年世田谷給田へ移転。本郷には墓地と 薬師堂、露座の十一面観音像が残っている。 ・平成18 年埼玉県深谷市の消防本部庁舎を新築し、 旧庁舎の倉庫を整理していた所半鐘が出てきた。  調べた所「富元山真光寺瑞泉院」と刻されていたの で宝永4年の瑞泉院のものと判明。「里帰り」された。  何故深谷にあったか不明。(この話は史蹟散策会で本 郷界隈を歩いたときに美作先生より紹介されたもの)  ◎現時点では小笠原家との関係を示す資料は全くないのでこれから調査予定。とあった。 そこで、すでに大鬼氏に当時の古文書資料提供依頼を下記のように、お願いしてあります。  追記H24年8月

前略・・現在は、郷土菊坂を中心に本郷界隈を調べております。
そこで、お願いが御座います・・。

貴倶楽部で行われておりました。故・山中先生を中心に
古文書の学びを行った資料是非、お分け頂きたく不躾ながら、
電話とメールに及んだ次第です。

手に入れたいのは『小笠原公江戸在府日記』の参詣の文献、史資料として必要です。

・安永6年(1777年)犬甘知寛が家老に就任し藩財政改革を行った翌年、何故
・安永7年(1778年)1/8-1/9 若殿 小笠原忠苗氏江戸四寺院に参詣。

_蔀の(広徳寺) ⊂召谷の(海禅寺) 6霍7丁目の(泰宗寺)
に楸拭”攜技魁瑞泉院・眞光寺

 近くに小笠原佐渡守屋敷があったからでしょうか。
それとも、その後の調査で藤堂関係が何か御座いましたでしょうか。
眞光寺境内は、※?外も下宿したようで、興味の尽きないテーマです。 (菊坂の与太郎)

第86号/06頁..........作成:2011年03月18日/杉原健児https://net.a.la9.jp/kk/kk-kaiho/kobunsyo/index.html

【IT情報参照】    IT引用  https://www.city.fukaya.saitama.jp/hisyositu/interview200608/index.html

https://www2.cubemagic.co.jp/hokudai/elm/elm/53/kouenroku3.html

https://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/jinss/ss4sinko.asp

https://news.mu-mo.net/topics/2006/09/post_213.html   

 H200103 与 (梨木紫雲)