■本郷の回覧板

昔空間散歩の薦め

本郷 -菊坂の与太郎シリーズ

 「東大下水」支流編+加筆

副題 戸田茂睡-『不求(もとめず)の橋』を尋ねて+

□プロローグ

これは、戸田茂睡の『不求(もとめず)の橋』はどこ・・がきっかけとなって近世現代に跨って書き始めたものです。

お江戸には、明るい昼でも人が避けて通る場所が幾つかございました。市ケ谷の「地獄谷」、そして湯島の大根畑近く「地獄谷」のぶっそうな道筋を避け、上野のお山にある「本覚院」前から下に降り弁天なる「生池院」を右に見て進、上の広小路通り手前を右、不忍池沿い「忍川新土手」を右手奥に見ながら上野元黒門町と池之端中町、錦袋円の前を抜け、寄合加藤邸と備中庭瀬藩(岡山)板倉摂津守の屋敷を回り、左に菅公を祀っている湯島の切通しを暫らく登り行く。有名な猿飴の前で休み、右手側は、お大の方(春日のお局さま)と、「東洋大学発祥の地」の枳殻(カラタチ)寺・天沢寺【麟祥院】がございます。今日は寄らずに其の前を進んで行くと「化柱(バケバシラ)騒動」のあった【盲長屋】さらに進むと、現在小さな公園【元富士権現稲荷社】になります、そして再び進むと春日通り当時はなんと一旦突き当たり、左右に伸びる道◎基点昔の「本郷三丁目交差点」へと出ました。その左角には後、享保年間に『かねやす』が出来「乳酸香」という歯磨き粉※赤色の歯磨粉で、加賀鳶など臥煙(がえん)も好んで使用。お土産としても手頃であり、売り出すと、お江戸で大フィーバーする事となったわけです。 

●『かねやす』 享保年間から続く其の角の老舗は、明治40年頃電車を通す為区画整理の対象となった。交差点は広り「長嶋洋品店」がその角地へと出ます。老舗『かねやす』は通りの反対へ追いやられ、今の丸の内線「本郷三丁目」寄りへと移動します。ところが昭和年代なって、またもや道路拡張の為に「かねやす」は再び角地へと出る事になります。ああ運命のイタズラ、それともこういうことを宿命というのでしょうか。今も、本郷の代表的な老舗です。

●本郷三丁目の交差点-クランク状だった春日通りの謎-                    東京大空襲の頃は四町目の表示記載が派出所にあったと云う。ここ本郷三丁目の交差点は、当時春日通りが正面で行き止まっておりました、何故ならそこには寺社方の瑞泉院「真光寺」があったからです。そこを左にもう少し行って、真光寺領地を避けクランク状に右折すると、続きの春日通となっていました。何故長い間不便なクランク状のままになっていたのでしょう、それは領地の問題がありましたし、江戸城を守る意味もあったでしょう。さらに武家方の中に寺社方の土地が存在していたからです。ところが【富士権現】を調べている内に一枚の絵図と出合ってそのもう一つの理由が判明しました。そう、世は太平になるがゆえ腕試しや、新刀などの試し切りを不逞の輩が、辻斬りという形で行い、非道な行いをする物騒な世の中が訪れた為です。

そこで各辻に番所を設けそれぞれの受け持ち範囲で責任を取らせたからでした。その絵図とは、所蔵図書【加賀殿再訪・西秋良宏編】の口絵P10/11「将軍の姫君登城途中の図」(M22年出版・徳川盛世録)である、そこには現本郷三丁目交差点付近におけるクランク状の春日通の続きに面して(大木戸)門が存在していた様子が描かれていました。

成る程そう云えば「松の栄」M22年出版【加賀殿再訪西秋良宏編】のP66には、遥か彼方に、岡崎藩本多邸前(森川宿辺りにも関所のような木戸門が描かれています。)そういえば治安の為の、木戸番とサイズも規格化された番小屋が各町内で存在し、夜になると大木戸は閉められ、閉門以後は木戸番を通じて、拍子木の音に送られ脇の小さな門より隣の町内に申し送られたことを思い出しました。どちらも東京大学史料編纂所所蔵とあり、生きている内に一度本物を見たいと思います。また読み行くうちに同【加賀殿再訪・西秋良宏編】のP188下に、長谷川孝徳氏筆(石川県立歴史博物館学芸員)「帰れなかった加賀藩士」として春日通に面した門と記述が在り、ペリー再来の時の面白いエピソードが記されています。興味のある方は一度ご覧になって下さい。

ここら辺りは昔「武州豊嶋郡峡田(ハケタ)領本郷村(江戸庄)」とも呼ばれていた一帯でした、治世も豊島氏より大田氏に変わっていた頃は、已むを得ない用事の時以外、人が近づかない場所でありました。  当時、ここらは荒れ寺状態だったとの記載があります。ここにあった「真光寺」は昭和20年3/9〜/10にかけての、あの忌まわしい東京大空襲に遭い現在は世田谷の給田に引越してしまい「墓地の一部」と「桜木神社」、六十六部衆によって供養された事を物語る「十一面観音」だけです。

戦後有志によって建て直された一宇のお薬師さんあの有名な「本郷薬師」が残っています。●『本郷薬師周辺』「ここは妙に重い空気の漂う場所だねえ」と母と以前から話しあっていました。まあ神社仏閣だし神聖な場所だからかな〜と理解していたのですが、・・・今回調べる内にその理由が判明したので紹介しておきましょう。  勿論、前々から御存知の方もおられることでしょう、少しの間だけ我慢していただければと思っています。

上下二段計24張りの赤い提灯が吊るされた「お薬師さん入り口」の鉄柱の鳥居には、右側に「本郷薬師の由来」左側に「十一面観世音菩薩えんき」が刻まれていました。

【※その左の柱に・・・風雪によりかなり読み難くなっていますが、次のような記述あり。】

■大昔ここは「刑場」であった 、

・・・犯罪人の処刑場、つまり

首切り場で、人も恐れて近寄らない淋しい荒れ寺の一部で

ありました。夕暮れともなりますと、何十羽と言う鳥が

飛んできては、晒し首の目玉を突き出し、それは二た目と

見られぬ地獄の有様であった、と古老は伝えて居ります。

             昭和五十七年 三月吉日 本郷薬師奉讃会

             ■参考資料「十一面観世音菩薩えんき」より抜粋

『本郷薬師』は、「新撰東京名所圖會」の絵を見ると、もともと後楽園寄りの「北の天神」と隣り合わせて独立して建っていたのですが、同時掲載の写真では、もう囲いが無くなっている様子です。例の桜木天神さまの狛犬などは、どこに行ってしまったのでしょう。お薬師様も廃仏毀釈などで、かなり粗末に扱われた経緯があるようですが、今は有志によって再建されその姿を見ることが出来るようになり。私達の生き様を、見守ってくれているようです。今でも六拾六部衆の「十一面観世音菩薩」と共に歴史の史実を伝えてくれています。

その前を回向しながら緩やかな「橋南三丁目」の《見送り坂》を下りきり、加賀屋敷内の「心字池」と同じ水源より出る小川に掛かる一條の小渠なる橋にさしかかる。

そして橋を渡ると「橋北五丁目」《見返り坂》の登り坂となる。この小渠なる暗渠かされた橋の下流側直ぐの所に、死罪をまぬかれた罪人を江戸よりお解放ち追放する為の流人船が出たと言う(それはまた燕楽軒の下辺り。)であったと、古老は伝えている。何人もの古老より異口同音であった、さらに信じられないという方が居られるようなので、尋ねられ再度本を探し出した。今後の為にも敢えて書いて置くことにする。信じようが信じまいが自由だが、たとえ理にかなっていない伝説や、神話などの作り話であっても、何かがあり派生したものなので馬鹿にしない方がいいと思う。まして言い伝え・・、口伝は、その古老が若い頃から聞いて来たものであり、記録の無い、忘れ去られていた郷土の情報が埋もれていることが多い。与太郎は古老からの口伝を大切にしたいと思う。与太郎がやっている事を馬鹿にするのはよいが、一生懸命お話し下さる、古老の口伝を遮ったり、頭から否定しないでいただきたい。信じられないなら、心に留めておいて下されば済むことであろうと紫雲は思っている。

★◎重要◎★出典は (「大正の子・本郷の子」P96-97玉川一郎著)。

そう言えば、加賀藩側邸内より沸き出し水は、二筋なり、一つは「心字池」にもう一つはとあります。 心字池の上、現在の噴水辺りより沸き出でていたと聞きました。(先日、「日蔭町」裏通りにて水脈跡の空白域を確認すべく「不覚筋動」を試みました。すると・・・、現在の懐徳館(迎賓館)方向に向き「文光堂」駐車場奥のひときは大きな木の方向を向きました。

でも、ゴメンナサイ、★★重要★★間違えないで下さい、小生の書き方が悪く、時間が無く最後まで読めなかった人が誤解をしてしまったようです、、口頭ではお知らせして来ましたが、懐徳館(迎賓館)はご存じの通り『御一新』の後、築山造園し、天皇の「行幸」を意識して造られたもので。それこそ盲長屋、加賀鳶などの下級武士の住居とその生活設備、田・畑・井戸を含む芥穴などがいくつも、馬場の辺りまでありました。

(まさかあの「富士浅間神社跡の昔たたりのあったと云う小山の」木で無ければよいのですが・・・。)それは前田藩が上屋敷を建てる為に「駒込富士浅間神社に合祀された「富士浅間神社の祟りを恐れ今でも六/七月には「山開き」と姿を変え、「富士浅間大神」を元富士町会でも、駒込富士(富士神社)でも恒例の神事を行なっているそうです。)  【閑話休題】、其の後、調べが進むうちに「富士浅間神社」は、春日通りに面する小さな公園のある「富士浅間神社」の場所では無く、現在の「赤門」から入った右辺りにあり現在「経済学部」の建物が建っているところでした。(もっとも、御守殿門『赤門』も従来の位置は、15メートル程キャンパス寄りになって奥まっていたとの事です。★1904(明治36)年現在の位置へ移された。)そう云えば、その先には昔「椿山」があったと聞きます。それが本当の富士浅間神社の名残だったようです。(ホットしました。)その有志によって建てられた富士浅間神社は、なんと「真光寺」が神事を代行していたそうです。どうりで天台宗富元山瑞泉院『真光寺』と云うはずですね。

 ●『東大下水支流』  さて、あの大きな「ヒマラヤ杉」?が、立っている方向から駐車場内を縦断し。狭い中仙道旧道のマンホール下を通り、日蔭町の「コスモス本郷ビル」の下へと消え「シャルム80ビル」そして本郷通りに面する「マルセイユ靴店付近」より再び水脈跡の空白域が伸び、現・文京センターの脇へと暗渠として流れていた大下水、現在も明月堂との間の長い明地を水脈跡の空白域が進んでいます。では、何時頃からこの本郷通りを横切る水路が暗渠化されたのでしょう、明月堂さん創業が明治25年と古いものですがその頃でしょうか、いえいえそれ以前です。「本郷追分」中山道分間延絵図には石橋が道路に描かれているが、他の本郷三丁目界隈の絵図にはどれを見ても橋らしい物、小渠なる橋は描かれていません。また追分のように、道路を横切っているのですからどこかで跨ぐ、または渡らなければ本郷通りを通れません。古文書としては残っているのですが。もう、古くから小渠なる橋の上に土が被せられていたのでしょ?大正7年の本郷・小石川區道路台帳では、暗渠になっている事が確認されていますのでそれ以前ということが、判っています・・・。  

 

 

 

 

 

 

以前「なみだ橋の石柱が出土」した時、そして暗渠化工事、大正3年〜昭和29年頃までの二級模範道路として「木レンガ」が採用、敷設され。また老朽化した「木レンガ」の撤去、そしてアスファルトの採用と、分かっているだけでも、何回もの道路工事で本来の姿より更に『見送り坂/見返り坂』は、なだらかな坂となっているようです。「明月堂」さんの店前、街路樹写真の白丸位置には橋名が刻まれた標柱が立っていましたがこれも、ある日歩行障害になり危険、という事で持って行ってしまったそうです。残念です。

H17年、丁度運よくここ本郷通りで、地下ケーブル埋設工事が深夜あり、数日に渡り現場に足を運びました。現場指揮者の渡辺氏より入った情報では、以前からココ辺りを何度か掘る機会があったそうですが、20cm位が二回、さらに四・五十cm位掘ったが、何も出てこなかったそうで恐らく都電線路撤去時に掘り出された重く大きな石蓋は大勢の大人が櫓を組んで重そうにトラックに積んで持っていったと目撃した明月堂の御主人が当時の模様を伝えてくれました。今持ち去られた石橋涙橋の蓋はどこにあるのでしょう。一部新聞でも報じられたと噂があります。どなたか写真等で記録しておられる方はおられないでしょうか。マルセイユ側にはもう無いのですが反対側「明月堂」側の暗渠化する際の五尺の石蓋が出てくるかもしれませんでも、1.5m以上掘らないとムリなようです。

 ■地図に見る大下水

明治時代の測量地図と、現在の物を極力誤差を無くし重ね合わせた地図として『真砂遺跡検戮P57に衂霏∧顕什盡Φ羹蠅制作した等高線入り地図が載っていました。それを利用して、その谷の部分を線で繋いで行って見てください。そこには、在りし日の昔の大下水が姿を現しませんか。

本郷の勧工場(後の燕楽軒)が建つ前、★★重要★★ 本来の流れの位置は本郷勧工場の真ん中辺り、真下を通っていたようです。勧工場を建てるにあたって土地を有効利用しようと、水路を南側にずらし、隣の明月堂との間に「東大下水支流」を移し、落としていた物と紫雲は考察しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

この地図を「クリック」見ていると、旧・東京写真の辺りから軒下に入り込んでいく様子が眼に浮かびますね。そして吉田金魚の先代が東大下水を利用して金魚を飼育している生簀となり、さらに下道への方へと流れていっています。三層重ね地図江戸期では附木棚より降りてくる道の先に、真光寺へと伸びる道が描かれていて急な山の小道か階段のようなものがあったのか、又は行き止まりの道だったのか今では菊坂の道により分断され「八百幸」その前は「利根川自転車屋」でしたね。

 

 ◎大下水跡を辿る。

さて現在の文京センター(旧・燕楽軒)と明月堂の長い明地を進んで、奥の階段を数段降りると二層のあきらかに異なる年代の石垣(第一期・第二期工事跡)があり、それ以降のコンクリートの造作物と一線を起しているようです。黒い石の部分、これは眞光寺の土台石として使われていた物だそうです。 此の文京センター「旧・燕楽軒」裏手辺りには、古老の松下氏が幼い時小さな滝(堰)があったと、お話くださいました。今は暗渠となりその面影すらありませんが昔船が出たのはこの駐車場辺りかも知れませんね。 明月堂の中山さまの幼少の頃は、本郷通り沿い、明月堂と燕楽軒の間を流れる大下水は危険なので塀で締め切られ保護されていたそうです。但し明月堂裏の旅館や下宿屋の裏から、大下水の水路に下りられるよう、梯子が掛けてあり、そこを使って近所の子が下に降り、水の流れが少ない土が出ている大下水の水路内で、遊んだという話です。当時は、雨が降らなければ筋のような水がただ流れてるだけであったそうです。また、当時は燕楽軒から投げ込むゴミが散乱しており、突然、物陰より走り来る溝鼠に驚いたそうです。大昔は、水量もかなりあったようですが、今となっては想像の域を出ませんね・・。 

,海琉典瑤竜録には・・・

昔、一町内下水東側中程軒下より西の方へ横切り丸山通りへ落込候

下水往古不忍より小石川へ續候川にて橋掛り有

之、わかれ橋と唱候由、何故名付候哉、申傳等無御座候、

當時下水に相成幅五尺石蓋致、地中へ埋有之候。・・とある。

△泙拭△修療后覆燭屬麑牲酘欧気鵝砲料阿嚢事があった時、大きな橋柱が掘り出され、そこには「なみだ橋」と書いてあったそうです。

罪人の処刑場がそばにあり道理で架かっていた橋の名前が「別れの橋」とか「なみだ橋」とか言われていたわけですね、あの戸田茂睡(1629〜1706)の筆によるとここは、太田道灌の境でもあるとのこと、この東大下水に蓋をして暗渠化された当時から、土などで埋まっていたものでしょう (「大正の子・本郷の子」玉川一郎著)。

   ◎『明月堂』と『燕楽軒』大正期二枚の写真の合成です。

 

●【明月堂】 明月堂のパンは、「ウ〜ン幼い時食べたあの味が今も変わらず・・」   変らない事は嬉しい事です。和服姿に白い割烹着、買い物籠を持った母に連れられ姉と三人で買い物に行き、明月堂の中が混んでいるので外でおとなしく待っているように言われた小生。富士山の形の「甘食」「おっぱいパン」と申し、胸の前に付けて姉と一緒にキャーキャーやっていたやつ。ひょっこりヒョウタン島のようなフランスパン。ボールを三つ真ん中で繋げた様な格好の三色(ウグイス・ジャム・アンコ)餡パン。さらに「玉子パン」最近は少し戻って硬くなってきましたが、一時期は時代に合わせ柔らかタイプになった時期もありました。昔は、カチンカチン、でしたので「かじってもヨシ」、「牛乳に浸してフニョフニョにして食べるとまたヨシ」。いつまでも飽きの来ないおいしさです。それが例のクラシックタイプの紙袋にいっぱい入っているのですから嬉しくなります。あと、ラッパの形をしたチョココルネや、白いクリームが挟んであるクリームパンなど、好物だらけ。「外で待ってるからその代わりグローブパン(カスタードの入っているやつ)、買ってね」とすかさずおねだり。でも、じっとなんてしていられないお年頃、店の前でいたずらっ子の目に飛び込んで来たのは御影石か大理石の枠に覆われた、大きな、大きな格子状の旧型下水溝、何か物を落としたら大変だなあと、勢いよくキラキラ光る水面に、子供用の黄色い傘の先を、その格子の穴に挿して深さを測ろうとしたら先っぽしか入らなかったこと、じゃあ長靴の底についている泥を格子蓋でゴシゴシと擦って、泥の塊を落としたらどうだろうと実験、あっと言う間に勢いよく流れていってしまった事を覚えています。明月堂さんの創業は明治25年ですが、前の道を工事した際此邊にて大きなる石を掘出したそうです。 しかしそれ以前、1818年出版の府内備考・第二巻(三十二・P76)にはこのような記述があるのです。

別橋跡、別の橋は四丁目にかヽる小橋なりしと。紫の一本云、むかし大田入道々灌の領地の境目なりしといひ傳ふ、この地追放の者など此所より放遣しと、又このほとりに住めるもヽいひしは、いづ゛れのころにかありし、此邊にて大きなる石を掘出せり・・・、解釈・読み方次第で年代の推定が変わる難しいところである。でも、度々出てくる戸田茂睡ってどんな人なんだろう、少し調べてみよう。

●戸田茂睡ってどんな人?

「紫の一本(ヒトモト)」と言えば戸田茂睡氏、1629年〜宝永3年(1706)4月14日、富士山の大噴火の前年に78歳で卒した元禄時代に生きた国学者です。また停滞しつつある歌の世界に新風を送り込んだ有名な歌人でもあります。そして「御当代記」により武家社会の様子を教えてくれたり、本郷に留まらず各方面の歴史、そして現在の郷土史の基礎を記録し我々にプレゼントしてくれた大恩人でもあります。

閑話休題、あの往古湧水位置より二方向に湧き出でる一つ方向は、地図と不覚筋動探索による、壊徳館Kaitokukan (President's Guest House)近辺の状況としては、正面の門辺りから斜めに暗渠内を流れ、今一つも同じく暗渠化を通じUniversity Museum の裏側を通り邸内の一本の大きな木の下辺りから、駐車場内を抜け、マルセイユビル靴店の脇辺より本郷通りを跨ぎ、明月堂と文京センターの間《明地》を抜け、突き当たり階段付近で昔は堰となり小さな滝となっていた。その階段の突き当たりは崖地で斜めにカーブし、駐車場内より明治22年開正式通した「菊坂の通り」へと横切って出ていました。最近新たに分かった事があります。

以前新道を流れていた川は、人間の生活に都合にいいように水路を変えられ、明治末期頃には、真光寺側に全て寄り、多くの丸太の杭や石垣が使われていた形跡がある。またその後U字構の大きな物に置き換えられていったたようです。信濃屋さんのおじさんが、ブラタモリの中でこの下には人間の背丈くらいの下水管が入っています。と仰ったのが、その後の整備で、明治の末ごろから住んでいたおばあちゃん(にお話を聞いた)「上から下までずうっと川が流れていて太鼓橋が3本くらいかかってた」と証言していたころは、開渠の頃の話である。これについては明治の地図資料等を使い、近いうち判明した事を必要な人には何らかの方法で報告しようとも思っている。きっと、往古の東大下水支流の本来の姿が小生と同じぐらい見えてくるかもしれない。

その成果の一つ、★文献資料による変遷「新道(菊坂の通り)」の史実をサービス!!

◆新事実 新道こと菊坂の通りは、※実際は明治20年暮れ頃から使われ始めていた事が、NPO 街ing本郷主催『文人卿』の「菊坂町事件簿」の際、同時に別資料を製作して提供して下さった友『林丈二氏』よりもたらされたことを、ここに感謝を持って記述して置きたい(2014年7月1日、林丈二氏作成・提供資料より)

https://www.youtube.com/watch?v=bJKEtutQuGA&spfreload=10

「菊坂の通り」は川だった、そして旧「菊坂通り」はもっと短かかった。言い換えれば菊坂の通りがまだ開通していなかった頃は、以前紹介した旧・菊坂の入り口。下写真「日本薬局」と今もある「花屋」さんの間を入り「附木店」を進み、道なりにカーブさらに進み最初の変形交差路を(ちょっと上に登ると祖先が、忍びの者だったと言う忍者の噂があった老舗の 『藤むら』だ。以前何かの本で読んだ事がある。大昔の「藤むら」がここらに存在していた)ここを左に降りると「亀屋」洗い張り店が右に位置し、その左には「小林質店土蔵」の脇を通る、以前「亀谷」さんは、この坂の突き当たり位置していたという。幸いな事に、我々は昭和9年の「燕楽軒下」の写真を通じ当時の様子を垣間見ると。それは町内会で撮った記念写真のようで、左(燕楽軒)寄りが蕎麦やで昔懐かしい建物の造りである。尚、木を挟んで右が古道具やさんであったとのこと。 写真提供 SK氏

さて当時は燕楽軒の下の商店街として、小太りだが面倒見のいいおばさんが居た

 嵌張や蕎麦店」

◆峭董屋」写真を分析すると習字寺子屋・町内会の連絡所などの役割を持っていたようである

「寺田電気店」

ぁ峅閥餡亜廖

ァ崚鬚里卦飢亜廚箸覆辰討い拭I輒敕垢ら坂の降り口まで行くと左角には地元で有名だった

アマチュア無線の大御所二文字コール、今年サイレントKeyになったOMの弓削多ビル脇で、菊坂の通りに出た所で水路とぶつかった物と、思います。丁度、理容「チャンピョン」と「寿々茂」の間が工事地となっていて、奥の旧「真光寺」寄りの石垣壁が見えます、見れば石垣の続きがここまであったことが判明しました。

其の後、石垣の右側は新しく大谷石により増築又は、改修したかで色も乾いたように見え、種類も違い、石の大きさも違うので一目瞭然。 左側、真光寺側の石垣、右側は、掘り出された検地石尚、石垣の面は道路側を向いており延々と土田米店近くまで続いていたという話もある、ここを掘られた業者の話では火災を受けた瓦の大量の欠片が埋まっていたと教えて下さいました。其の一つ多分大きな商家の瓦であったろうか。「万」という字が残る瓦の一部を保存した。そして、関連資料として以前理容「チャンピョン」が工事をした時、沢山の検地石と杭が掘り出されたと御亭主からお聞きし確認しました。尚、当時の杭を採っておかなかったそうで。残念! と思っていたら当時からこの面に目が開けていた人がなんと、※採取してくれていたのである。近々披露出来るかもしれない。 

 

 

 

 

 

 

機会があればもっと先まで見てみたい物ですが多分、玉川一郎先生の叔父さんがなさっていた弁当屋左の後ろ辺りまで石垣があったのではないのでしようか。(最下、調査中です)

現在、炭火焼になった旧「天心」隣{の、明地・前は「モード洋品店」「時計屋」(大昔は汚わい屋さんの馬を繋いでいた所)}の奥、「岡田コーポ」辺りです。さらに行き止まると大きな凹みの駐車場、上は元気な声のするジャングルジムの見える「本郷(旧・真砂)小学校」グラウンドのへりになる近くです。ついでに書かせてもらっておきますと、窪みの右側に玉川一郎先生の生家があり、独身時代は毛糸の帽子をかぶり、執筆活動をされていたそうです、そこを健やかなる御幼少の久我先生が友達と遊んで居ると、「こら〜・ウルセ〜あっちへ行け〜」とヨク怒鳴られ、それーとぱかりに蜘蛛の子を散らすように逃げたそうです。そんな処を通りの方に戻って行くと井戸があり其の近くに「教会」がありました。その教会は玉川氏及び久我氏の地図にも載っていますが、当時の様子が(「大正の子・本郷の子」玉川一郎著)に載っていますので、一度お読みになって下さいね。小生が知っている事で、敢えて追記補足するならば、以前触れましたが「新人」を発行したことで有名な海老名弾正先生の「弓町本郷教会」は湯島聖堂の近く交番側の近くに在った、「湯島の講義所」を皮切りに、布教活動を開始し、横井時雄牧師による東竹町の地に最初の「弓町本郷教会」の前進、本格的な教会が順天堂裏に建ちましたが、春木町より起こった火災の延焼で会堂を失い次の「壱岐殿坂の会堂」が見つかる迄の一時期、ここの教会の好意で信者達が空いている午後に自分達の礼拝を真摯に守ったそうです。(※詳しくは別の項で)

閑話休題、弓削多ビルまで少し戻ってさらに道の右側に沿って暫く進む、「谷川 書店」を過ぎ「街を綴る」の著者熊田氏の家、(ココはかの有名な徳田秋声や林芙美子に関係のある)高級汁粉屋「梅園」の在った場所でもあり後、昭和年代に熊田氏が居住される前は「梅岡」という甘味屋があったと聞き及んでおります)その隣の古老に話を聞くと以前、ドブの他に川が有り昭和62・63年頃、建物を建てるにあたり試掘ボーリングを行ったところ地下40メートル辺りから緑色のヘドロやノロが出て来て、昔ここが間違いなく川の底だった証拠が出てきたそうです。そのビルの前を通り「金魚坂入り口」前も進むと、「信濃屋さん」(此処のご主人もかなり前より近隣マップを作成されコピー代だけで、必要な方には気軽に分けてくださっておられる郷土に熱心な方です。そして太田副知事が住んでいた洋館のあった処が「丸金(まるきん)」ここは、文具やおもちゃそしてお菓子もおいてあり、菊坂の通りの社交場でした。其の後「金田ビル」は「スピードワゴン」となり現代にいたっております。その前を通り現在、天心脇の、明地・前は「モード洋品店」「時計屋」(大昔の汚わい屋さんの馬を繋いでいた所)の付近から推測ですが土澤米店の方に近寄り昔の「東京写真」があった処、(今はタオル等を扱っている)大昔は畳屋さんでした。小生が知っているのは昭和年代の東京写真店ですが、その時も位置が引っ込んでいました。がそれ以前大昔の畳屋さんの頃は、SK氏によると、「そういえば、不自然ともいえる位に畳屋が引っ込んでいたそうです恐らく水路の関係があったものと推察されます。

その辺りから住宅の下に潜り込み、「菊坂の通」の裏で旧・「吉田金魚」の水槽を満たしてから大下水は(下道)へと流れ出ていたようです。したがってここから続きの「菊坂通」と川とは離れてしまいますがほぼ添った形で現在の菊水湯近くまで下道を流れていきます。現在「吉田金魚」は、南北で言うと、附木店と菊坂の通りとの間に。東西で言うと杉本葬儀店とシナノヤさんとの間一葉の通った吉川学校や児童新聞明治館近くに位置し『金魚坂』として有名な場所になっております。平日でも金魚すくいや、休憩処、予約を入れればおいしいお食事。そして和服姿の素敵な金魚坂 六代目女将お会い出来るかもしれません。   ※吉田金魚については別の項で触れたいと思います。

 [写真出所:吉田金魚旧資料]

 

嬉しいことに、大正期(震災前)の本妙寺谷界隈地図が玉川一郎先生と奥様のヒサさんにより記録されています。東大下水のあたりにはつい最近まで公文教室が二階に位置していました、本郷旅館組合の建物位置に「魚よし」さんの前身があったようです。隣の現在、佐藤かけはぎ店になっておりますところは[本妙寺坂入口の大名屋敷面影 「小笠原佐渡守」屋敷跡]で写真に掲載した通り

「しんかい」さんがありさらに遡ると人力車のたて場がありました。                       ← 「大正の子・本郷の子」玉川一郎著 青蛙書房

本妙谷に戻り、一階が駐車場となった柴田商店(お菓子屋)さんは、伊藤パンから、線香の欄月等まで日常の物は一通り揃った便利なお店でありました。この場所は、以前小間物屋の「美好や」でもありましたが、そのさらに遥か大昔は「本郷丸山岡場所」でもあったそうです。この岡場所とは湯島の岡場所大根畑が火事と規制にあい、閉鎖された為、一時盛んになったそうです。この辺り本妙寺谷に流れる川を渡る為の、小橋があったようです

 

 

 

 

 

 

 

絵にある岡場所の下側の方には小笠原佐渡守屋敷雪崩地の東西側面には石垣の崖がありました、北側は特に石垣普請で覆われてい無かったのか、大雨風雨の後ヨクくずれる大ナダレ地でありました。この辺りにも茂睡翁がおられたのではないかと考えております。  (図版出所: 文京区史 近世兇茲)

戸田茂睡翁の書に【不求の橋】

丸山本妙寺谷に有り、陶々斎と遺佚と、染井の花や見物がへりに丸山へよりてみるに、わづか成橋を渡し、不求の橋と云札を立てたりし、はしのきわにあばらなる竹の折戸の門をまふけて、桧の木板のちいさきに、隠家の茂睡と書て、塵の世とおもふ心もつもりては身のかくれ屋の家となるらしとあるようです。

この下道への降り口は左側に窪み地となり貯水池やアパートがありました。その敷地は崖下で、返歌にあるところがしっくり合う。

いざさらば、草庵へ入りて付近になるべしと、門の折とを明けて中へ入ってみれば、いつしか爰をも又すみすて、放魚池かれて蛙争あつまり、棲燕うつばりむなしく、雀おのずからかまびすし、満二羽荒草茂りては軒のしのぶに葉をまじへりくずれがちなるめぐりの垣に、生のぼる八重むぐらのとじこめたるぞたのもしけれ、庵の内にはつくえとおおきなる印籠のあるより外は、なににてもなし、その印籠は丸くこしらへ朱にてぬり、内に短冊をいれてさげたるよしなれば、あけてみるにあまたの短冊あり、その歌をこヽにかきしるすは、遺佚が此道に志ふかき故也すむ庵を人の住処といへりければ讀る   茂睡隠家     ・・・・・・(以下略)・・・・・・・                                 「戸田茂睡という人」著 横田真精 ・先日、清水崇文氏(A写真家)練馬に同行してもらい茂睡氏を少しでも理解しようかと「逆修塔」  と「歌碑」の取材に行ったところ、この本は、「待乳山」の先代の住職が書かれた本であと僅か  しか社務所にも残っていないとのことでした。(必要な方はお早めに。)

 そのまま東大下水を降りて行くと右に上道に繋がっている所が何箇所かありました。その代表的な物がココ「うさぎや」でした、今はぅ泪鵐轡腑鵑任垢。ここは、分かっているだけでもっ澤氏時代 遡ってうさぎや(駄菓子や)時代そして■稲垣邸の一部であった、ここが宮沢賢治先生が二階に逗留し、筆を揮ったところだ。活動として童話作家活動、布教活動にも関係をもったのも此の次期である。その前にある階段を上がると左手に「花明」そして、隣に床屋が以前ありました、左の幅の狭い窓が並んでいるものがその床屋です。残念ながら開業した年代からすると賢治の作品に出てくる『床屋』ではありませんが・・・。今では、床屋に使われていた大きな鏡が花明に保存されているだけです。

さて土手中通り(大正・昭和期の菊坂通り)に出ると真正面には(間瀬)綿屋さんがあり、階段を登り切った二時の方向に、伊沢蘭軒にも載っている長泉寺」の門前に通じています

右角は同愛薬品であり、此処までが丸山岡場所であったということです。  さて、下道側の同愛倉庫の出来事で覚えているのは、ミキサーのような物をグルグル回し大きなしゃもじで、何かの錠剤を作っていたのを見た事があり、隣は本妙寺門前坂入り口左角に現在位置しております「中村屋」蕎麦屋さんがいたところです。丁度、長泉寺前になりますかね。

そうそう下道と言えば「下道のオバサン」と子供たちの間でちょっとした有名人がいました。の写真「うさぎや」の文京東映の映画看板があるその左脇に小さい手ポンプ井戸があり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ますが、その隣に住んでいました。なんとSK氏は、本妙軒を建築する際仮の庵としていた事があるそうです。(羨ましいです。)またここは、昭和29年封切られた成瀬監督の『晩菊』のシーンに出てきます。小生が生まれるちょっと前のウサギやさんがそこにはありました。

 小生がハッキリ記憶にあるものは間口を広くしたやつですがその前の

←間口の狭い頃の映像です

また、これを裏付けるかのように、

■熊田氏の本の中にも、同じ時代と思われるデッサンが載っていましたので掲載しておきす。謝辞!! ※尚、紙面をお借りし掲載許可を快諾いただきました熊田氏に感謝申し上げます。        菊坂の与太郎 この写真を見て思い出した事があります。 この間口の狭い左横には、タマ(魚すくい用のレンガ色の網のやつ)が、バケツか、空き缶のような、大きい容器にさしてあったのを思い出しました。

さて、うさぎやの前に出て、右に曲がりその先を、少し菊水湯のエントツの見える方に進むとこんな風景が昭和30年頃にはひろがっていました。今も、面影がありますね。

  そして最初の角を左に曲がると、「坪内逍遥宅(春迺舎)」だった常盤会や文京区ふるさと歴史館に行く「炭団坂」に通じます。  この炭団坂の歴史は古く【戸田茂睡と炭団坂】与太郎の戯言に記しておきましたので興味のある方は見てやってください。ここは下水の合流地点ですから上からの下水が流れ入り、その水かさを増しました。溝を右に沿って行くと天野さんと上田豆腐店への間に菊坂通りを挟んで「梨木坂」に抜ける道が在ります。大きな組紐屋さんだった天野邸位置とは、現在地元のフットワーカー・クロネコヤマトのサテライトですが、明治時代は寄席「新市場亭」だったそうです。特に印象的だったのが上って左、上田豆腐店の角には下の菊坂交番がありました。独特の六角形の形状、入り口上には赤い防犯丸灯がついており、其の下には『KIKUZAKA POLICE BOX』なる表示がついておりました。その先眼前に見える梨木坂はあの「本郷が好き」な「戸田茂睡」が住んだ一つとされています。きっと夏には大きな一本(ひともと)の梨の下に、蚊柱などが立ちその蚊に茂睡も喰われポリポリと掻いていたのかと思うと妙に親しみが沸いて来ます。閑話休題。その坂入り口に現在は地元のみかた「牧野工務店」が在ります、ここはパチンコ屋さんの時期があったり病院の時期があったりといろいろです。面白いのは近くに美人で有名な「菊坂小町こと、小林姉妹」がいたそうで用もないのに地元の若い衆が店の前に集まっていたそうです。(何時の時代も同じですね。)さて、上田豆腐店の横には鳥屋のおばさんと親しまれた。クリスチャン加藤のオバサンがやっていた駄菓子屋さんがありました、オバサンは「東條 英機」と同窓生で小さい時は良く一緒に遊んだそうです。今は教育NPOの運営をし、科学教育プログラムの開発とコミュニティースクールの運営に携わる。志村光一さんが『本郷菊坂文庫』を開いています。ここに行くと文京区界隈から飛び立った文人達の手に入りにくくなった作品や本郷界隈に関する資料に出逢えることがあります。階段上右の天野邸一階が、親しみのあるクロネコのサテライト作業所になっています。昭和20年代の菊坂通りは、相互通行でしてこの辺には白線の上に赤い帽子を被った一号ポスト君があり、路地を挟んでナラバ運送店(たばこ店)の真向かいが「大木風呂桶屋」現在は「大木ビル」そして、井戸を挟んで下に通じる細い道がココにも在りました。現サテライト作業所位置の「藤井電機」トランス製造そして「天野邸」下道に行く路地の階段を挟んで「交番を取り込んだ上田屋豆腐屋」さんです。

先日、牧野氏より貴重な写真の提供があり、その姿を再び見い出すことが出来ました。  ■謝辞、紙面を借り、ここに貴重な写真と資料を提供して下さった牧野氏に感謝致します。

「天野邸」には優しい天野のお爺ちゃんがいて、道路側には縁台を利用した植木が並んでいました。良く近所の子供達を可愛がってくれたのを思い出します。ここも以前は勧工場や、寄席先ほど申上げた新市場亭の時期があり町の名士が良く通っていたそうです。今まだ確認が出来ていませんが、成瀬監督が現「雑歩庵」近くの下道上り口と、菊坂への途中の路地階段をうまく組み合わせたシーンがあり、杉村春子さんが上の道(菊坂)に逃げ上がり、やり過ごした後もう一度覗き込むシーンの撮影場所かもしれません。菊坂への途中の路地階段に映る、特徴のある左の張り出しは覚えているのですが、画像処理をして見るうちに何か見覚えの無い井戸のような突起物があるようです。

でも、上からのシーンでは左に壁からパイプのエルボのような物が見えますのでこれ組紐を生業にしていた天野邸であることが判りました。以前ここには新市場亭という寄席や勧業場になったこともあったと分りました。また調査を進め、古老にお伺いして報告したいと思っております。

では下道に戻りましょう、路地を降り、下の段に辿り着くと当時はドブなのでその石蓋又は木の板を渡り、下道に戻ります。右に進むと現在は「雑歩庵」さんの「街のえき」です、開いている時は、是非お寄りくださいね。ひよっとすると素敵な島根先生にお逢いでき、色々珍しい話や、これから行くところの情報が手に入るかもしれませんよ。

 そのまま進むとちょっとカーブした空間の在る所で振り向くと、

加東大介が会話を交わす秩父セメントの鉄塔の一部が覗くシーンです。その左奥に先程の、ウサギやのある稲垣邸が見えます。

さらに進むと道路の色が変わった所が在りますその近くに一葉の下道沿いにいた住居を角に見ながら、路地に入ると^賤佞井戸の近くにいた時の最初の住居跡そして、晩菊の主人公(杉村春子)が住んでいた設定の場所があります。

  ◎橋・・『菊坂橋』と『菊水湯橋』+Myブリッジとは・・

 『樋口一葉』時代の菊坂70番地の旧居位置について・・菊坂通にほぼ平行して走る大ドブ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 下道は特に「東大下水支流」がありましたから橋が多い処でした。ここ菊水湯近くの東大下水時代を辿ると、上の菊坂通りに繋がる大き目の幅広階段ににさしかかります、今も位置が変わらず残る木造の中村さんち側を基準に、以前は、現在の三分の二位の幅であったそうです。反対の長唄のお師匠さんがいた側、(菊坂上道からの下水脇)を上がって行く左角には、『与謝野鉄幹』がいたこともあり小生も家を新築する際、なんと仮の住まいとした事が在ります。もっともそんなこと当時はちっとも知りませんでしたが昔の造りだった事は覚えています。

上道(ウワミチ)、右斜め前方には炭屋さんがあり、二階から下にロープと木の滑車を使ってカマス(こも)に入れた燃料を降ろしていたことを思い出します。     

■「与謝野鉄幹」寄留先  階段の反対側、一葉住居案内板がある降口は、「与謝野鉄幹」が駒込吉祥寺へ引っ越すまで、(上京した当時)儀兄を頼って居候をした場所です。実は、ここにはちょっと小生住んだことがあります。家を建て直す間なんですが、当時の家はまだ昔のままでした。家の中の様子ですが、南窓には鐙坂上の司令部跡が見えていました、とても寒い家でストーブを年中点けていた事を思い出します。正面引き戸を開けると土間があり、左側に下りる為の手すり付き階段があり、降りると上の道路と平行している細長い廊下そして、突き当たると(外見で云うと階段側)にトイレ、イヤ「厠」という呼び名の方がふさわしいでしょうか。薄い一枚の板の扉を開け裸電球の紐を引くと二股ソケットがボヤッと点灯し、左右に足置き板が置かれた和式で下を見ると落し込みの暗黒空間がポツカリと空いておりました。紙も落とし紙。でも、いちよう水洗です。エッと思われるでしょうが、なんと上の台所で賄いをし、濯ぎ水が流れると「チョロチョロ」というかわいい音と共に下に伝わって来て流れる、という今で云う「省エネ的には水洗ありゃ(推薦)こっちかな・・・のおトイレでした与。」続きはまた何時か・・・       

前のページになりますがこの階段下、ここにはなんと橋が三つ架かっており右から手すりの付いた立派な橋『菊坂橋』が階段の道幅一杯にあったそうです。ここは下水の合流地点ですから上からの下水が流れ入り、自然左の「菊水湯」の方へと流れが曲がって行っております。昔水量が在った頃は、場所によっては深さが子供の背丈以上あったそうで、その流れもやはり速かったということです。 階段を上から降りた真正面は、現在「皆川理髪店」ですがそれ以前には「山崎理髪店」が営業していました。「晩菊」に映っているクルクル回る三色の軒下看板側、防水桶の前を通り角を左に曲がるとある晴れた日、少年雑誌の表紙を撮る為、のれんの前で紺色の浴衣姿のゴクミがしゃがんでいた「菊水湯」が見えます。暗渠前の東大下水当時はこの「菊水湯」に行く為に、もう一つ橋を渡らなければならなかった。この橋も幅広で『菊水湯橋』と云っていたそうてす。

さて+Myブリッジの種を明かすと、菊坂通り寄りの各家庭の入り口前をこの東大下水が流れている為、各家庭で適当に板を渡したり本格的に橋をこさえていた人もいたそうで、それが+Myブリッジなのでした。

菊水湯の前を通り、赤紙「召集令状」を発行していた本郷司令部が坂上右にあった鐙坂の崖下へとぶつかり、上からの下水がさらに合流します、水が綺麗だった頃は、「小笠原佐渡守屋敷跡」にも書きましたが、『沢蟹がいたそうです。』その話をして下さったのが、なんと一目を置いているKai-Wai 散策のmasaさんがお撮りになっている、豆腐店横の階段を降りた所、「まちのえき」隣の「待合室」脇、そこに写っているおしゃれな老婦人※「菊坂の老婦人」は小生の幼稚園からの友人のお母上で、そのお母さんのお姑さんが子供だった時の話を聴いたものです。その角は現在中濱邸、庭には石塔やら、丸にカタバミの入った家紋が付いたお蔵があり「昔・相生荘」があったようです。以前角には「三星とんかつ」が在りましたがここはまた「湯島の白梅」に出て来る、真砂町の先生の家としてロケに使われたとかお聞きしています。また鐙坂下も、某TV局で最近放映された『真珠婦人』でオープニングに使われていたのを思い出します。では、崖に沿ってしばらく進むことに致しましょう。丁度スバル360が降りてきて東大下水を避けて通って行きますが右空き地駐車場になっているここには、お菓子屋さんの「エノモト」さんがあったそうです。そういえば火事がありました・・。そのまま道なりに進み、印刷所前を通り、崖が無くなり右京が原へと続く短い坂道の下、変形交差路に格子状の古いむき出し「古い形式の大型下水蓋」が二つあるところで、合流をし。目の前に見える「言問通り」へでは無く、先程の短い坂道の右側を直進し白山通りへと流れ出て合流、後楽園「東京ドーム」の裏にある「水戸光圀公」と百本以上の白梅や紅梅の梅林があることで有名な「小石川後楽園」の中、白山通り沿いを通り吉祥寺橋(水道橋)近くで神田川へと落ちていたそうです。
もっとも左の崖地側はここまで迫り出してはおらず、もっと緩やかな段々になっていたようです。其れを削って造成したのが今の道で、お風呂屋からの曲がり角、よくよく見てくださると道路の継ぎ接ぎ具合で、旧東下水の道を含んだおおよその幅と、道筋がまだ感じられることと思います。
 また、幸いなことに昭和28年代頃の「鐙坂の画像」を見ることが出来ます。今と殆んど変わっていないことが分かると思います。 それは昭和29年発表の成瀬巳喜男監督作品「晩菊」に出てきます。この下道、暗渠化された後も大雨が続くと出水があり、下のようなエピソードを残しています。■近世に戻って古老からの情報では、昭和6年迄の右京山側の崖は大ナダレ地で、まだ泥の土手でしたそこにはよくある小さい笹が生えていたそうです。その後右京山に「清和寮」が建つことになり、鐙坂下側の崖地は整備され大谷石の石垣に改修されたわけです。其れまでは東大下水支流の流れが崖下の崖と反対の側溝路に沿って流れていました。其の頃はやっと自転車が通れる道幅だったそうで、Kaiwaiのmasaさんが、以前お撮りになった名作。2006年03月29日「ガマ池への路地」に近い物があったようです。※ https://mods.mods.jp/blog/archives/cat_12_ae.html 何年か前、出水騒ぎがあり下道の「まちのえき」近くのSS先生宅前にある、植木鉢が流されてしまい行方不明になっていたところ、二三日してから、白山通り沿いの方が、日頃下道を通りながらキレイな花を愛でていらしたのでしょう。植木鉢を届けてくださったそうです。やはり見つかったのは言問い通りでは無く、白山通りであったと島根先生が教えて下さいました。ポロロッカ現象以外、水は高い所から低い所に流れるという原則に従い考えて見れば当然のことで、陸軍参謀本部の地形図通りであったわけです。其らの事から、  大昔 「東大下水支流」は実際船が通れる程の川が流れていたであろうし、沖積世から縄文期までの氷河融水、そのさらに遥か遥か三浦層郡の堆積時代の昔には、本妙寺谷だけではなく、其の上も海の入江であり、川であったりした時代があり、見返り坂・見送り坂の小渠辺りが、太田氏の領地の境として利用されるのも当然のことでしょう。

この辺りはアースダイバーの観点からも本当に、明治19年頃の地形の線が入っている地図を見ると下道辺りは入江があったことだろうなと、素直に想像が出来る場所ですね。                                 (本郷 菊坂の与太郎)こと梨木紫雲

 

 

■付随資料     なにかの参考に・・・

左「十一面観世音菩薩えんき」

十一面観世音

 此の奥、ホテル機山館の横手を右に折れて二十米の

所に、十一面観世音菩薩が安置されて居ります。

一度拝んだら忘れられない、おだやかなお顔、是非

御参拝下さる様御推め致します。由来については

数々のエピソードがご座いますが、簡単に申しますと

今ありますお薬師様付近は昔、犯罪人の処刑場、つまり

首切り場で、人も恐れて近寄らない淋しい荒れ寺の一部で

ありました。夕暮れともなりますと、何十羽と言う鳥が

飛んできては、晒し首の目玉を突き出し、それは二た目と

見られぬ地獄の有様であった、と古老は伝えて居ります。

此処に全国六十六ヶ所の霊場に観音経を奉る六十六部衆と

言う組織がありました。将軍吉宗の頃(一七二〇)余りの

あわれさに、此の人達が近郷近在の庄屋、名主を説きふせて

寄付金を集め、御招来申し上げたのが此の観音様で御座います。

それまで人の居つかなかった此の地に、数年を出ずして立派な門前町

が出来上がり、御薬師様の繁栄と共に本郷の名物となりました。

 菩  薩  に  つ  い  て

明治維新の折、佛教を廃止して釈迦の教えを捨てよ、

此の観音様も棒で叩かれたり突かれたりと云う

仕打ちを受けました。昭和二十年終戦当時、皆様ご存知の神仏無益

論が、やはり観音様受難の時期で 、荒縄荒むしろでぐるぐる巻きに

され、墓地に放り出される一幕もありました。然し再度に及

「佛体への迫害にも、莞爾(かんじ)と耐えて、「人々よ、人たる道を

誤るな、人の心を失うな、人こそ人の基なるぞ」と傷だらけの

仏体を晒して、人心荒廃した東京の焼け野原に、正しい人間の

在り方を訴えかけられたのは此の観音様であります。

其の後経済の安定と共に心ある人々相集まり、仏体を修復し此の

地の鎮めとして御安座願って居ります。

昭和五十七年 三月吉日                              本郷薬師奉讃会

とありました。本郷薬師入り口24張りの赤い提灯鳥居の門柱より写記。

 昭和63.4〜平成17・12/10未完・予定稿

■参考文献引用資料。

・御府内備考 雄山閣   ・新撰東京名所圖會         ・文京のあゆみ

・本郷小石川區道路台帳  ・加賀殿再訪・西秋良宏編     ・駒込のお富士さん

・「大正の子・本郷の子」玉川一郎著  ・「街を綴る」熊田氏著 ・雲荘随筆

・「十一面観世音菩薩えんき」・・・本郷薬師奉讃会  ・成瀬監督の『晩菊』        

Kai-Wai 散策   ・各町内、古老の皆様よりの情報+資料等 ・ぶんきょうの歴史物語      

・道路工事監督の渡邊様                     ・今昔東京の坂P259

「加藤大輔」→「加東大介」当て字「不貞」→「不逞」

佐渡之守→佐渡守へH240823 校閲 K様 ありがとうございました。

※ブラタモリ本郷台地よりコメントを引用

◎紙面を借りて御協力、感謝致します。            

最新更新(H1808)(H1904)(H270531+新解釈) 

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