■本郷の回覧板

昔空間散歩の薦め

本郷 菊坂の与太郎シリーズ

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 )槎寺谷界隈コース

   ■基点「本郷三丁目交差点」シリーズ案内 第二回 Aコース 

■現在「文京区男女平等センター」&住宅公団になっている。真砂遺跡の一つでもある。

この写真の左側が、小笠原佐渡守中屋敷跡に至る門の写真です。

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今も元「真砂医院」寄りにレンガの壁がありますが、一昔前は『第四大區警視出張所病院』にもなった事があるからです。

次頁の参謀本部地図からすると此の病院は大名屋敷敷地の弓町寄りにレンガの壁辺りから建物が「旧・春日通りの道幅」で紹介した様に「弓町本郷教会」の幼稚園入り口前の道を隔てた辺りまでありました。レンガ壁はその当時の名残のようです。

 病院開設当時は、近隣の方の診察も行っていましたが途中から根津・吉原が近かったせいか、必要に迫られてからか梅毒専門の病院に切り替わったそうです。ですが、そんな赤線も時代の流れと共に消え、其れに従うかのように病院も閉鎖されました。其の後レンガから弓町寄りの土地は民間に払い下げられました、当時の記録が残っています乙・甲地として二人の者が落札し直ぐにまた分譲売りに出されたようです。  

  さて、写真の門のある土地もやはり返還された後は、所有者が何度も変わっております詳しくは、熊田氏著の「街を綴る」という本がお奨めです。

その頃の名残なのか、真砂医院の周りと、M邸角そして中川モータースの横には気になる布石があります。 

 

 小生の聞いた異聞には月に二度水か木曜の検診日には、人力車が一斉に並び普段縁の無い人達がめったにお目にかかれない太夫などキレイどころを一目見ようと集まり、人垣が出来たとも聞き及んでおります。熊田氏著の「街を綴る」には、文京区史より毎週水曜日と記載があります。 また戦後、東条英機の妹さんがひっそり住んでいらしたそうです。

現在の本郷小学校は、元町小と真砂小学校が統合された物です。

※竜岡門近くにあった(旧・本郷小学校とは違います)。さて旧・真砂小学校のこの位置は、久永丹波守の屋敷跡で本妙寺が本郷丸山に移転してくる前からありました一つのポイントです。 ところで本妙寺は「久世家」「阿部家」「大久保家」が主たる檀家で、特に久世家は大きな後ろ盾の一つでした。

真砂小の隣の蠡膺浩夙能蠅領戮蓮▲▲鵐妊好魯燹岼觝蠅気鵝廚任修良婉瓩療效禄衢者変遷は、 ※(/)=隣地(左/右)です。

延賽年   1673〜1681   ゝ弃僻騨守
       (御先手組大縄地/御先手組大縄地)崕ナダレ

元禄 9子年 1676〜1697  ◆ゝ弃僻騨守
             (御先手組大縄地/御先手組大縄地)

元禄12卯年 1699〜1703 久永丹波守(明地/明地)

元禄16未年 1703年    久永丹波守(明地/明地)

賽永元申年 1704年    ぁゝ弃蔽闇伴蕁別酖銚司次/吉田内蔵助)

享和元酉年 1801〜1802ァ^肪斡霄]此焚弾8∈献門/岩佐郷蔵)



川嶋さん

磯崎さん

また、後日判明したら追記させていただきましょう。

昭和30年頃にはアンデスハムの磯崎さんちで、奥様も上品な方でしたが、人懐っこい変わった柄の猫ちゃんを飼っていらっしゃいました。尚、当時道路の反対側にはやはり、大きな門のお屋敷があったそうです。

)槎寺谷界隈コース

本妙寺坂を下り本妙谷 向かうにあたって。<序文>

本妙寺坂を、右手に旅館「富士館」左手に大名屋敷の石垣、途中に大きな黒塗りの護美箱を電信柱の横に見ながら、本妙谷に下って行くと、右手に枇杷の木がある「旅館組合の案内所」(二階に塾)がある処、そこが昔「魚よし」があったと玉川一郎氏&※ヒサさんの(玉川先生の奥様、関東大震災の時「浅草12階」が折れて崩れるところを目撃された方です。)地図に記録があります。また左手「下道(したみち)」に大溝があり、千川に注ぎ込み白山で今でも繋がっているそうです。 今はもう昭和6年頃暗渠化され東大下水は見えませんが、旧式の下水格子蓋に近寄ると今でも、ドウドウと流れでる音が致します。まだ暗渠化されていない頃は、下道の右側に大ドブが流れていたのでこの本妙谷にもきっと小橋が架かっていた事でありましょう、それがあの茂睡翁の(不求の橋?)なのかも知れませんね。

 まだ川がキレイであった頃、下流では「私の幼い頃、鐙坂の崖下では沢蟹を見ることが出来た」と隣家のお婆さんから聞いております。また、それ以前はもっと水量が豊富であり今の文京センター「旧・燕楽軒」の付近から太田治世時代は、江戸お解き放ちの罪人を乗せた船が出ていたと云う事です。ここで考えられるのは、ここには昔から川が流れていて水路があり通行する為には、橋が架かっていたはずです。でも茂睡時代にもし船がまだ通っていたならその小橋は、船が通れる位水面からの高さを有する橋であったのかも知れません。または茂睡時代はもう船は通ら無くなり、小橋だけになっていたのかもしれません。[※拝見した抜粋資料の、丸山岡場所絵図は(白黒なので)この場所、橋も川も確認出来ないようです残念。] 一度、原本を確認してみようと思っております。

※ここで、いつもお世話になる真砂町の和菓子の老舗のご主人から、新情報です。昔この辺に短い運河があったそうで古地図に載っていたとか・・・。また追って報告します。

■水脈は確かに此処を流れていた。

成る程「魚よし」さんの後ろ側に最近金魚坂で有名な「吉田金魚」屋さんがあったそうです。賢い先代は、この水脈を利用してその上に金魚飼育水槽を造っていたようで、古地図と照らし合わせてみると、KS氏の推察の通りうまく水路を利用しております。ここに吉田金魚屋さんが引っ越してきて水槽を構えたのが、明治初年頃ということですからその頃はまだ水も綺麗で、水量も豊富だったのかも知れませんね。

そこは、菊坂の通りの路面より階段で何段か下りる低い位置にあったそうです。そういえば附木店ツケギダナ(元の菊坂へ通じる道、旧道)本郷通り沿現在は無い「日本薬局」と現在も在る「花屋」の角より入り、道なりに進み「旧・藤むら」の脇を通りさらに「金魚坂」で有名な吉田金魚の脇を通る、突き当たったら左に坂を降りていくとそこには正面に「八百幸」がありました。八百幸の場所には以前「利根川自転車屋」の時期があり、今も家の奥は一段低くなっているようです。さて当時、利根川自転車の右脇に、子供がやっと通れるようなとても狭い階段が存在し数段降りた所に、水槽がありました。そこにはヒゲの長〜いおっかないお爺さんがいたそうで、当時の多くの子供が怒られたという記憶をお持ちのようです。

さて下道(大どぶ)については、また次の機会に詳しく書きますがこの下道を辿って行くと「宮沢賢治の菊坂下宿先」 多くの「晩菊」の撮影現場。そして「炭団坂」への入り口「街の駅」を通過し「一葉井戸」「菊水湯」「雑歩庵」となっております。

下道を左に見ながら、柴田商店(少し前まで御菓子屋さん。角店と呼ばれていた)を通過すると菊坂通りが横切っております。左がよく言われる現在の「菊坂」、右が玉川先生に敬意を表し「菊坂の通」です。

■現在の菊坂通りが全通!!   「利根川自転車」より本郷通りまでが(M22年3月)に開通しました。この道は明治時代の北村区長の時代、区長の説得で街の名士が土地を提供した事により実現したそうです。古老の話、その名士とは・・・?。   「太田氏」・「中村氏」・「永瀬氏(伊勢質店)」と判りました。

 

さて、「柴田商店」の位置も明治大正期には小間物「美好や」さんでありました。その反対側は、当時人力車の立(建)場となっていたそうで、近年では小間物屋の「しんかい」さん、現在では「佐藤かけはぎ店」となっております。では、本妙寺坂を降り切り「本妙寺谷」から振り返って「大名屋敷」方向を眺めてみましょう。

\鏝紂∨槎寺坂と石垣  

 

では、本妙寺跡を尋ねて「菊坂通り」を横断し惣門へと向かってまいりましょう

■『本妙寺の面影機戮鬚燭匹襦選択 )槎寺谷界隈コース

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●「小笠原佐渡守屋敷跡供徇∋情  資料編

●「小笠原佐渡守屋敷跡掘彿箚以(信濃・上田藩の松平屋敷)古庵屋敷」森鴎外「伊澤欄軒」にみる余語古庵

『本妙寺坂』「本妙寺谷界隈コース」   ○『本妙寺谷界隈』 道造屋敷

 ○『本妙寺谷界隈上納屋敷 

 ○『本妙寺谷界隈 ◎道造屋敷残地

■『本妙寺の面影』をたどる

                        つづく・・・