文字サイズ大でどうぞ。

   ●更新 炭団坂(たどんざか)は・・・だらしない階段」だった。

□プロローグ 炭団坂(たどんざか)、物心ついた頃から炭団坂の階段を毎日最低二回通っていた、弓町本郷幼稚園に入る頃から姉とその友達がはいているのを見て、スカートをはいて行くと駄々を児ね、ねばり勝ちでとうとう念願のスカートをはいて登園したらしい。(当時から認知症だったのか本人は全然覚えていない・・・木下先生のように乳呑児の頃からの記憶があればなあ・・と思った。)でも、幼稚園の先生から裏づけをとったので、間違いがないようである。この坂は昔から「だらしない階段」だった。(SK氏命名)

)     

「高級な階段」VS 「だらしない階段」

 それに比べ、事あるごとに紹介する階段であるが、「不忍の池」から上野公園「光雲作の西郷像」や「彰義隊の戦った弾痕の残る黒門跡」に行く時登る 

「理知的、且つ人間工学的に高級な階段」に比べるとなんとも怠惰な感じのする人間的な階段であった。前者は、おそらく着物主流の時代に造られた階段のようで、一段の幅はとても狭く、右利きの人なら歩を「右・左右・左・右左・右」というように長く登っていっても疲れないように良く考え工夫されているのに対し、どうも炭団坂は坪川氏が撮って残して下さった明治頃の写真にもあるように、当時は階段のないだんだら坂で、一旦雨や雪が降ればスッテンコロリンするのは、当然である。

 ■小生の記憶

 階段化されたといっても、昭和30年頃の記憶ではレンガが敷いてあって、と書くと大層立派に聞こえるが実はコンクリートとの継ぎ接ぎだらけの階段で、階段も幅が広い所が続いていたかと思ったら、途中で尻つぼみのように狭くなったり、また広くなったりというなんとか頂上で帳尻を合わせた「だらしない階段」であった。雨が降るとブリキのバケツ底位ある大きな蝦蟇(がまガエル)が、二・三匹階段を占領していたり、大好きだった蝸牛(でんでん虫)がやたら雨上がりの日は多かったのを覚えている。朝、幼稚園の行きに見かけて、帰りにまた同じ場所で見かけた、よっぽど炭団坂が気に入っている蝦蟇一家なのだろう。それもその筈、環境がよかった。ふるさと歴史館から来て、階段を降りると、左側は常盤会の欄干下からそれを降り民家(同窓生「築比地(ツイヒジ・タモツ君)」の家)現「中井」表札のある所までは新緑で覆われた立派な竹林であった。七夕時には幼稚園から貰った笹を引き摺って帰宅の途中、「あっ同じ。」と色紙で作ったリングや短冊で賑やかになった笹と、見比べたものである。[勝った、心のナカデサケンダノデアル。]まっ、なんにせよそんな「だらしない階段」が、平成初年に砂利道ではあるが、明治の頃のようにだんだら坂に戻った姿を一瞬見せてくれた。※この頃時を合わせるかのように「常盤会」も更地になっていた。

 昔はこんなだったのかな〜と当時思ったのは、小生だけだろうか。

 上真砂町会々館がまだ無い頃、週に何回か落とす「旅館・真成館」の風呂の水音を聞きながら、<★クリック>下の長屋門前から上がって行くと左手の坂の途中で急な崖になる※季刊誌「本郷」より、そこ迄の左の崖下の斜面は比較的ゆるやかな傾斜だった、奥に見える家屋迄の間には大きな木が何本も植わっていた、そこには柵や塀等は無く、木立がその役目をなしていた。

 現在、そこにお住まいの多田氏(植物にまで目を配り、優しく見守る素敵な方・・。)と、話しをしていて思い出した事だが、椿の木が確かにあった。樹自体は大きくないが(考えてみれば当時は階段の上からだったし、周りの木が高かったからそう感じたのかもしれない・・)とても印象的な椿で、ちょっと階段の上から体を乗り出せば届く位置に、赤い大きな花を幾つもつけていた。「本郷」創刊号より拝借そしてそこの斜面には、ひょんと飛べば中の敷地に入れるような造りだった。でも、小さかった小生には、出る時の事を考えると大きな子と同じようによじ登る自信がなかったので、とうとう実行できなかった思い出がある。中に入ったのはその後ずうっと後で、初めて入ったのは大人になり町内会の夜警当番として「火の用心、マッチ一本火事の元」と拍子木を鳴らしながら長屋門を潜った時だった。 さて当時は急な崖になる所からブロック塀であり、それを棒切れや手のひらで軽くコスリながら階段を上がり切ると、左に巨大なアンテナタワーを持つ白いビル諸井氏(「旧・春日通りの道幅」で紹介した 下写真(諸井邸)美弥子の家のモデルとなった屋敷のオーナー)が創設した「秩父セメント」があった、成瀬監督の作品

「晩菊」にもその旧大型タワーの姿が何カットか写っているので興味のある方は★ここをクリックしてご覧下さい。尚、実際の映画を御欄下さいますと何か発見があるかも知れません是非御覧ください。確か中庭「男女平等センター」寄りにあったと思います。さらにその後、アンテナはパラボラアンテナ(お皿を立てた型)に変わった、時代の流れのせいか(官による、技術的な指導による周波数移行の為か)、はたまた地元周辺から高い塔が万が一倒壊したらという要請があったからなのか、その巨大な姿を消し、設置場所はテニスコートになり、小さなエントツもその頃出来たような気がします。ビルの上にチョコンと載ったタワーは短く、塔の上部には四角いステージ部分がありました。片方には避雷針、もう片方にはHFアンテナらしい物がついていたと思います。またビルの端から端までダイポールアンテナが張ってあったり、当時主流の2Mバンドのスイスクワッドアンテナと、なかなかアマチュア無線の活動も盛んだったようです。またその下には、カラス一家が愛の巣をこしらえて子育てに励んでおりました。あたりがオレンジ色に染まる頃、豆腐屋さんの「トーフ〜」というラッパが流れると何故だか必ず鳴いて子供たちに帰宅を促してくれました。そうそう、音といえば弓町本郷教会の十字架下に付いていた大きな灰色スピーカーからは、綺麗なウェストミンスターの鐘の音が朝晩と定期的に街に流れ平和な時を告げていました。(騒音問題、云々がまだ無い)優雅な時代。

さてパラボラアンテナは、マイクロウェーブ中継回線で常に秩父の工場と繋がっていました(但しマイクロ波故に雨の日はとても弱かった)そうで、時代の流れと共にそれも使われなくなり。パラボラもいつの間にか取り外され暫らく骨組みのみという姿で時が移ろいました。外見も同じく「秩父セメント」も会社名が何回か変わり、現在既に取り壊しがすでに終わり、三井不動産の手で「旧・小笠原佐渡之守」大名中屋敷跡の面影」

もますます無くなり、何本かの木を除いて「パークコート本郷真砂」が基礎工事に入り地元の反対を押してまで高層マンションを建てつつある現状でした。高い物を建てるなら、「日頃の景観」と「周囲への日照」そして必ず起こる大震災の時に、複雑なビル風を作らないような地域住民に愛される街造りをして欲しい物です。

※一行削除致しました。H171216与

追記、「パークコート本郷真砂」其の後住民との和解が進み建築もだいぶ進んで参りました。仕方が無い事とはいえH17年12月13日ついに菊坂通りの岩崎屋酒店隣、

駐車場から永年見えていた二邑亭駄菓子さんが記録してくださっていたバナー後楽園タワーの天辺赤い3つの灯火が夜間のネット越しにかすかに見えているそれも、時間のもんだいでしょうけれどやっぱり寂しいものですね。三井不動産さんも精一杯譲歩をしてくれたようです。   ありがとう。

後は、「日頃の景観」と「周囲への日照」そして必ず来る大震災の 時に、起こる複雑なビル風がどうなるのか見つめております。菊坂の与太郎

■自動車が落ちた!

 昭和20年頃は、まだ「炭団坂」の頂上に柵が無く、久我氏の友人で]タクシー業を生業にしていた方が夜霧のかかっているある夜、道を一本勘違えて入り、車の前輪を落としたことが有るそうだ。(すぐバックして事無きをえたそうですが・・。)落ちた車は勿論外車、当時はまだ車と言えば外車主流の時代だったとか、当時の国産車だったらそうは行かない、やっぱり馬力があったのでしょう 。無事自力で脱出したそうです。その後頂上には急遽、柵が設けられるようになったということでした・・。

大正時代に至っては「菊富士ホテル」のネオン設置がとても珍しかったそうですから街灯の数も圧倒的に少なかったのでしょう。夜になれば「一寸先は闇」明るい満月の出ている夜でもなければきっと鼻を抓まれてもわからない位暗く、突然ストンと道が消えるような坂になっていたようです。また、小さい頃聞いた話なので定かではありませんが、あまりにも不揃いなので階段を掃いていた古老に尋ねた処 「素人が造った階段だからだよ。一度雨が降ればよく滑るし、水溜りも出来たりと足元が危険なので、上のお屋敷を取り壊した時出たレンガを貰い、隣組が協力し合って炭団坂の階段を安普請(やすぶしん)したからだよ。」と仰(おっしゃられ)ていました。◎納得、それからは幼心にも感謝をしながら「炭団坂」を通るようになりました。

 

追記、T氏に教えて戴いたのだが、ちょっと嬉しいニュースがある。宅地造成による居住地までの階段を作る為、切られてしまった。あの左側の林であるが、幼稚園の頃見かけていた椿の芽がひょんな所から出てきたそうである、下の方を少し掘ってみると、コンクリで厚く覆われた階段の下の方向から伸びて来ており、OKサインをこさえた時出来る輪位の根が、其処まで伸びて来ているとの事。小生も知らなかったが不動産屋さんから聞いたところによると。その椿は「な・なんと樹齢300年程は経っている代物だそうである。幼稚園頃見かけていた椿がまた、いつの日か見られるようになるかも知れない、今から楽しみである。心の中で 「やってくれたね。椿君」そう声を掛けてしまいました。これからも、T氏を初め地域の住人と楽しみに見守っていこうと思います。(H1705)与

◎new!!◎T氏の素敵なブログを紹介します。 「炭団坂から気ままに発信」(H1712)与

 ■古老に聞いた話・・・最近隣に住む同窓生の御尊父が亡くなられ、焼場にお供させてもらった、その時御尊父の子供時代の友人(古老)と話す機会があった、ある日進駐軍がやって来てこの炭団坂をジーブで下ったことがありそれを数名が目撃していた。また、上のSK氏の話で、落ちた車は後にヒルマンと判明した。(H1706)与  ヒルマン・ミンクスと判明(H200524)与

整備が終わり立派な手摺や立派な案内板、歩幅の揃った綺麗な炭団坂になりました。でもなんとなく昔はあんなにもけなしていた「だらしない階段」ですが、今はとても愛おしく想うのです・・。私は、なんて勝手な人間であろうとつくづく思う与太郎でした。                                                   記「菊坂の与太郎」

追記・この度新しい情報が得られたので更新しておく。H201001「真砂町會要覧」S8年刊行より

大正13年「炭団坂」石段並びに31番地先の石段二箇所破損につき、本郷區役所及び書く當局者に之が修理の運動を為さしめ、あるいは昭和7年、31番地先の石段改造を當局者に運動しこれが遂行を為さしめて、その目的を達っした。・・・とあった。

<編集後記> 追記、『戸田茂睡と炭団坂』 H1709祭礼