■本郷の回覧板

昔空間散歩の薦め

-菊坂の与太郎シリーズ-

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 本妙寺総門門前坂

 

■『本妙寺跡』を尋ねて

本妙寺谷の不求橋(もとめずの橋)を渡り、いよいよ本妙寺惣門に続く御門前を上がる時、左の角に今でも「中村屋」と言うお蕎麦やさんがあります、その昔中村屋さんはもっと菊坂通りの先、宮沢賢治の下宿先「うさぎ屋」の降り口、現在「吉村歯科医院」の隣、長泉寺門前斜め向かい位置にあったそうです。  ※上の写真は「菊坂通り」側から「菊坂の通り」(本郷通り方向を見た写真です。)  幼い頃からここに住む 鈴木和加さんの話では、「中村屋」さんの場所には「キマタ」洋品店があった頃、菊坂通り方向に行くと和菓子の「栄太郎」、区会議員の小林寅(通称コバトラ)さんと並んでいました。(※古老の地域地図参照)

もっとも東京大空襲の後ここには、貴族か華族の経営する「珈琲店」が一時出現したそうで。小さな高級カップ(デミカップ)でコーヒーを飲ませていたことがあるそうで、前後は判明しておりませんが地図によると「杵屋」という飲み屋になり その後中村屋さんがこの角地に来てくれ現在に至っております。

小学校の頃、土曜日午後ともなると「チャーシュー麺」や「カレーうどん」姉は「おかめうどん」や「親子丼」が多かったかな・・・を頼んで。おはなはん』のお昼の部や「デンスケ劇場」を見ながら昼食の時を過ごした事を思い出します。丁度エースコックの即席ラーメンが出てくる前の話です・・・。話は前後しますが関東大震災以前、坂の上「惣門」へと向かう「中村屋」の位置に「下駄屋」さんがあり。「表具師」そして「刺繍屋」さんと玉川先生の地図では描かれています。年代によってかなり変化しているようですね。

少し前の中村屋さんは、写真のようなお店でした。この写真は菊坂通りから、本郷方向「菊坂通り」を見た写真です。昭和の初頃には菊坂通り方向に見ると角から「キマタ」洋品店、和菓子の「栄太郎」、区会議員の小林寅(通称コバトラ)さんと並んでいましたが。さらにそれ以前は角が上に書いたとおりの下駄屋さんです。

今度は坂の上「惣門方向」へ向かい、隣が表具師、そして刺繍屋さんと続いておりました。その反対角は、現在KIKUZAKA  SQUAREです。終戦後、ここに「久我鉄工所」が甦りました。戦前久我邸は、現「シナノヤ」に位置しておりましたが戦火の影響で疎開を余儀なくされたそうです。その時耐火金庫もそのまま置き疎開したそうですがその後金庫がどうなってしまったのか分からないそうです。当時の貴重な写真が入っていたかも知れませんね。さてこの角地、大正期には「エンヤ薬局」でした。そこを上がって、現・久我邸の下(ガレージの)奥には「大正・本郷の子」などで有名な、本郷の子「玉川一郎先生」の旧居跡が在ります。今にも毛糸の帽子を被った先生が出て来そうですね(拝見する時は心の中でちゃんと御挨拶下さいませ。)玉川一郎先生も有名ですがココの主もまたちょっと有名です。多分TVなどでお顔を見た事のある方が居られのではないでしょうか。NHKでは作家「立松和平の街道を行く」に、本では神楽坂のタウン誌に。テレビでは、TV東京の物、主人と奥様、そしてお茶室「本妙軒」の紹介が。本でも【夢のある「終わりの棲家(ついのすみか)】著・大山真人氏。などなど有ります。久我茂三郎さんは、玉川先生と同じ旧本四生まれで。技術畑を歩んで来た方です。その仕事には、父上殿の鉄工業を助け、「無から有」物を生み出す際の才能をお持ちです。例えば、車イスなど国産では無かった頃、かの有名な政治家「鳩山一郎先生」の依頼を受け、写真から登院用の車イスと日常使う車椅子と二様を造り。鳩山邸に納めに行ったそうです。その時の逸話はまたの機会に、そうそうふるさと歴史館発行の本「記憶のなかの文京」にも、近隣にご挨拶されるお嫁さんとして奥様(お茶の先生)が・・・裏表紙に(昔の柴田商店・お菓子屋さんの店先と共に)写っております、また本の中にも牛乳屋さんへの挨拶の模様が「自宅を出る花嫁」と誤説明ではありますが載っております。なんでこんなに久我氏の事を紹介したかというと実は秘密があります。

・『本妙軒』 久我邸の内部には、これから調べる「本妙寺」公認のお茶室があるんです。外からは一切判りませんが、本格的なお茶室で『本妙軒』と名がついております。やはり見過ごせません。お客様がある時は主人自らが玄関先に打ち水を施し。心して出迎へ、内部(玄関)に入ると直ぐに、お茶の心に相通じる、気取らない茶花(野の花)を使った先取りの生け花が、窓に添えてあり。季節を感じさせてくれました。右側には愛嬌のある狸の掛け軸が掛かっており。緊張した雰囲気を和らげるよう心配りがされておりました。もっとも昔は炭団坂でも狐などが近世よく出たときいております、ましてや本郷の丸山本妙寺辺りも大昔は、秋ともなればススキの草原に銀波がたなびき、狸も出た事かと想像するとなんとも、箱根の千石原を想い出し心が広い空間へと放たれます。玄関でさへ素晴らしい体験ですから、お茶室での体験はさらに素晴らしい物でした。勘がよく何を求めているのか先に判ってしまう方で「立松和平」氏も舌を巻いたことでしょう。

 お茶の心は「本郷台中学」の前進「二中」にも久我両先生を通じて伝わり、一時は国際親善にも一役買ったようです。話は本郷台中学校に建てかえる際、地中深く掘られた層から、取り出した土を使い焼き物にし、本郷台焼きの茶碗を製作され現在も一対の見事な「本郷台焼き」を有しておられます。先日も、感心させられる出来事がありました。みなさんは『供茶』ってご存知ですか。御先祖様を床の間にお招きし、世帯主が代表でお茶を立て捧げ。その後で御先祖様を偲びつつ家族でお茶を頂きます。その際は、世帯を引き継ぐお嫁さんが立てるようです。そんな話とお写真を拝見して何か、お茶の心を通じ、先祖を大切にしている行事に何か日本の心を感じてしまいました。別名「本郷のカーボーイ」本人は本妙軒のお玄関さんなどと称しておりますが、とても粋な本郷の住人です。機会があったらまた久我氏については、語らせて貰いたいと思います。 

本郷丸山本妙寺の姿

@明暦の大火前・・・吉祥寺橋(現・水道橋)近く後楽園より本郷丸山へと移転した「本妙寺」

「寛永大絵図」に見る昔の「菊坂」一帯は、「瀧又助組(御中間組?か)が」殆んどを所有しており現在の位置にほぼ「長泉寺」がそして隣に「本(明)妙寺」が隣接している。その北側の菊坂臺町には元和の頃より「天栄寺」と云うお寺があったようだ。喜福寿寺より、旧菊坂(胸突き坂)に行くと左手に「梨木坂」に曲がる位置に出る。現在の鳳明館別館角だ、ココラハ昔「菊坂の奥の方」だったからか「奥山」と云われ、山のようになっていたらしい。そして「寛永大絵図」では、「本妙寺」と付木店側との境の一部と道が違うことに注目しておきましょう。

A明暦大火後・・・・・・一説によると。振袖火事により火元の汚名を被り、幕府と老中阿部を守った             本妙寺は復活●本妙寺 御府内沿革圖書に見る(明暦の大火後)全体像

B巣鴨移転期頃)・・・・本妙寺、明治大正期の記録。明治に現在の転地、染井吉野辺りへ移動す              る頃の姿を公文書に見た。

◆本妙寺(明暦大火前)の本妙寺を探る。 江戸から東京へ(矢田挿雲)による本妙寺の姿には、不明な部分があり、近年の資料だけでは理解出来ない点が幾つもあった。

T・本妙寺、本郷通りに幻の総門があった。

U・一高寄りに二つ目の門、出入り口があった。

V・他に、大黒堂前で以前事件があったようである。その事件とは・・・

の一件と、(取毀総門の移転について)。

・本妙寺「惣門はドコダ!」 門番所・沐浴所・稲荷社

さて、「本妙軒」の上は現在「駐車場」です。おや、どうやらふるさと歴史館前で別れ、楠の木や弓町教会そして女子美発祥の弓町校舎界隈に行かれた方たちが追いついて来たようですね。お疲れ様でした。ではね一緒に本妙寺跡の面影に浸ってみましょう。

 ・明暦後(溶姫お輿入れ頃から)の「本妙寺の惣門」

溶姫は将軍家斉の娘で、加賀藩主前田斉泰(なりやす)への輿入れが決まったのが文政六(一八二三)年のことであった。その後、同八年より本郷にて溶姫居所の普請が始まり、同一〇年に完成、同年一一月二七日に輿入れが行われた。

坂上に向かって右、駐車場の坂、上側フェンスをA地点、 そう現在マンションになっている所が「公認会計士会館」→「本郷税務署」→(情報によると「渡辺裁縫女学校」→)「女子美の菊坂校舎」→「本妙寺第四校跡」そしてそれらは本妙寺の右側部分の一部です。反対の左側部分の大谷石とブロック塀の切れ目を、 B地点とすると、その下は「前島歯科医院」です。j前島先生は「日本歯科医師会の副会長」をなさっておられていたのを記憶しております。先生はまた永年PTA会長をなさっておられたり、体験話として象の肉やライオンの肉を、食べた事があるそうです。奥様は鈴を転がしたような澄んだお声の方で、若輩者の小生にまで気さくに声を掛け、応接室に招いてくださりお茶を頂いたり写真を見せて頂いたり、ダンス音楽を聞かせて下さったりしました。小生がとても好きだった、御夫婦です。そして今でも、尊敬する先生の一人です。

さて、その上ちょっと切れている所の塀を覗き込むと「石垣の崖」になっておりB地点とするとこの位置と、反対側の駐車場の坂の上側フェンスA地点の辺りに、明暦後の「本妙寺の惣門」がありました。御府内備考の寺社編を見ると見取り図から惣門がここに在り、その右に「門番所」そしてその奥に「小屋」と「沐浴場」があったことが判ります。このA地点のもう一つの決め手は、あの附木店の突き当たりの延長線上の位置だからです。

その左手「本妙寺跡の左側」ですが。惣門を入ってから左に崖沿いの道を行くと・・・・、この近くにお稲荷さんがありました。その位置は・・・御府内寺社備考ではほぼ、菊富士ホテルの記念碑のある処にステキな赤い外車が置かれている駐車場近辺になるようです。また「三層重ね地図」によると幻の道が明治頃の地図に描かれておりさらに道が伸び、長泉寺山門前を通り「梨木坂」まで繋がる道があったようです。詳しくは、『「本妙寺」から「梨木坂」への抜け道』編で語りましょう。

■「赤心館」の跡を営業していたのが「清光荘」です。その後赤心館跡は「空地」となり、戦後古地図にはメu新盛堂」と記載がありました。そこのお嬢さんで 栄嶋さん子供の時分にはもう稲荷社が無く、平屋の家があり誰か人が住んでいたそうです。 そして火事になったとお話下さいました。栄嶋さんは、よく菊富士ホテルにも回覧板を持って行ったそうです。(菊富士ホテルに出入したなんて羨ましい次第です。)勿論あの東京大空襲があった昭和20年3月9〜10よりも以前の話です。昭和23年から27年それと、「赤心館跡」今は、ウ〜ント掘り下げていますが本来は地続きだったので当然地面が平らに繋がっていたそうです。

先日、栄嶋さんの現在住まわれている隣で、ちょっとした工事をしていたら石にぶつかり工事が中断し、その石を取り除こうとしたらそれは結構大きな石だったそうです。そこには感應院が建っていたようなので、本妙寺の社中の石と見受けられます。

文人行き付け・・・爽やかな『クサマ理容室』 草間さんは昭和七年に理容室を開いたとの事ですが、菊富士ホテルも目と鼻の先 クサマ理容室の御亭主と話し、先代からの口伝を聞いた。 先代が子供の頃は、「東側に行くと昔、大きな池の跡のような窪みがあり、その中でよく遊んだ。という話だ。

そこで、ハッとするのが「矢田挿雲」のあの一節です。昔の「本妙寺」はこに池を有していた、その池の辺りに、大正時代には「女子美の菊坂校舎」と「佐藤高女」が出来たそうです。そうそう佐藤高女の「佐藤しず」先生の逸話には、こんな話があります。ある時、校庭の一部を掘っていたら案の定人骨が出てきて大騒ぎになったそうです、でもさすが順天堂の創設者の奥様「医学」にも強かったのか「ここは墓地だったんだから人骨が出るのは当たり前でしょう。」とさっさと片付けその騒ぎを見事に鎮めてしまったそうです。

  菊坂通りに住む故・鈴木和加さんからの聴取では、校門を入って直ぐの所に佐藤シズ先生の胸像があり、登校して来た生徒が皆一礼をして、入っていったと懐かしそうに話して下さいました。 クサマ理容室を出て、左に進むと赤新館に続き、北側隣の「長泉寺」裏門に出るが、昔は北側の独逸学校の辺りまで長泉寺の敷地があったようですから、その延長線上からすると、台町公園のあった辺りまでは間違いなく本妙寺だったようです。

 ■本妙寺、境内の写真                                            「東京名所図会」の中に「本妙寺の惣門」と、「境内の写っているのを思い出し」早速調べて見てみると、前は中から惣門に向かって写したのか、惣門を入ってから写したのかよく分からなかったのですが、落ち着いて見ると影の方向から、惣門を入ったその向きで境内を、坪川氏によって撮られたものだと云う事が分かりました。ここにあった明治当時の本妙寺の姿が見れるなんて、なんて有り難いことでしょう。感謝・感謝。