■本郷の回覧板

昔空間散歩の薦め

本郷 菊坂の与太郎シリーズ

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『戸田茂睡と炭団坂』

寛永五年(文政図)の菊坂界隈は御中間方大縄拝領地でした、町名由来の菊は長禄頃から作られていたようで付近一帯花畑であったとの記載があります。ここは南側だけの片側町で、北の方を里俗『奥山』といい、東に長泉寺、本妙寺があり、西は菊坂田町、南に本妙寺坂がある。北側の菊坂は崖になっていて冬季になると雪崩が多い所だったようです。 

この菊坂町と菊坂田町、同台町、同丸山田町、小石川片町、丸山新町を含めて里俗『丸山』と云う「府内備考」。そして町屋が許され、元禄九年に町方支配となったと記載が在ります。さて、その菊坂町はと云いますと急激に開かれて行く今で言う新興住宅地町屋故に、住む人も増え生活に必要な上下水も周囲の道も当然必要となり以後利便性を考え、次々と整備されて行く事にあいなるわけです。◎其の一つがナダレ地の造成利用です。 其の頃、東大下水に沿って本妙寺谷下道に降りて行く処現在の角(カド)店(旧柴田商店)辺りがそうです。大昔水位が上がっていた頃は、入り江でした。Kaiwai散策のmasaさんのブログを見ていただくと一層、実感していただけることと、思います。では、この坂を下っていくことに致しましょう。

本妙寺坂のある谷戸        https://mods.mods.jp/blog/archives/000733.html

 ■本妙寺坂を下り本妙谷   https://hktv.xyz/Honmiyoujizaka.html

往古、下道に下りて行く坂の右側は、江戸時代ナダレ地の為、(ナダレ・明き地・明地・空地)の様な表示が古地図にはあります。

■『本郷 菊坂道造屋敷』

菊坂町内の「仁兵衛」他15名が当時の道奉行「武島次郎左衛門」と「伊勢平八郎」にナダレ地の造成利用を申請し、翌年工事を俊成。その結果:

雪崩地延長205間・奥行3〜4間半という長〜い長屋が完成致します。

 ・元禄11年(1698)8月永代橋の往来が出来るようになった年〜元文五(1740)頃迄町方支配とされ『本郷菊坂道造屋敷』と唱え、 先の16名で所有され ていたそうです。

◆『本郷 菊坂上納屋敷』 

◎ここで注目!・寛保年間(1741頃)故ありて公収され競売される。結果:當町「安右衛門」「権左衛門」と決まり上納請負が命ぜられるた。『本郷菊坂道造屋敷』から『菊坂上納屋敷』と云われるようになった。つまり「東大下水」の項で書いた「本郷丸山局見世長屋」が出来るわけです。…※別資料あり。 

●寛保年間故有り公収せられ、延享元年入札に付し、當町の人「安右衛門」、「権左右衛門」に上納請負を命ぜられ、菊坂上納屋敷と唱えしに、其の後「隠賣女」の検索度々あり、・寛政11年(1799)11月18日市家を徹して武士地と為し、遂に旗本及び小役人の拝領地となれりという。(別本では8日記載)(■新撰東京名所圖會P83下より)

●江戸町鑑(天保)に見る、・寛政11年(1799)11月8日(別項では18日記載)小田切土佐守様御掛りにて、町屋取拂當時武家地になると記載あり往時、名主の名前に吉野喜兵衛の名がある。  

※明治ニ年、道造屋敷の残地及び本郷四丁目、五丁目の代地を併せ、また傍近の土地を合して其の町域を拡張せりとある。          (■新撰東京名所圖會P88〜89)

●【道造屋敷残地に、関する他の記述

道造屋敷の残地とは、あの16人所持中の1人分の土地で、御養生所付の御用地となり

明治期まで残った物である。

※また、別記として重複するが、その実体は。

一道造屋敷残地 南北へ12間8寸、東西へ5間、

此坪60坪6合餘、但片側町、右は古来古券地の所、年暦相御用地と相成、当時小石川御養生所付御用地にて地守有之、地代金年々懸り町年寄へ相納、公益代人や區にて

一ヶ年限28匁5分三月・八月・十一月の三度に相納申候(府内備考P126)

※纏め:本郷菊坂丁之内『道造屋敷残地』とあり、続地が「武家地」となっていること、水道橋がすでに吉祥寺橋で無い事、その年代を寛政11年(1799)11月18日以降なのでないのかと、現在は考えている。尚、与太郎の調べでは◎1671(寛文11)年新板江戸外絵図から、この【道造屋敷残地】こそは、旧・中仙道「日蔭町筋」口、現・本郷三丁目交差点近く(本富士町)のソフトバンク携帯S/R位置にあった木戸番小屋のマークと同じマークがある、そのことから何故あの16人所持中の1人分の土地の公収に生残り、本郷丸山局見世長屋時代を通り過ぎ、「小田切土佐守様」御懸りにて「町屋御取払い」と風雲急を遂げた地帯であるが御養生所付の御用地となっていたからか、明治ニ年迄『道造屋敷残地』は残り続け、「本郷四丁目、五丁目の代地」を併せ、また傍近の土地を合して拡張するまで残ったのも納得できる話しですね。       (■新撰東京名所圖會P88〜89)               菊坂の与太郎資料より(紫雲)  

 

 ■そこで『戸田茂睡と炭団坂』

◎ざっと周辺の関連資料を見てきましたが、そこで「本郷が好き」の一人『戸田茂睡』翁の残してくれた「御富代記第五巻」37頁・38頁にある炭団坂と思われる開通記事をもう一度見てみましょう。※『御富代記』には、 元禄10(1697)年「一頃日、丸山与力の下屋敷上り、本郷四丁目の水落流付かハり、弓町より梨木坂へ之道開」という記録があります。これらは、※詳細に二月十日と記録されております。

(壱)次の項との間に差し込まれている、つまりは後から書き足した物であり、この日とは限らないと云う助言。また開通した道も、今の段階では炭団坂と確定しない方がいいとの事でした。小生は当時、指摘されるまでライブラリーにて見られる原文の事も知らず、「戸田茂睡」翁の事は文京区志ニ巻や 東京市史稿にある、一般的な知識だけで、赤子同然無知浅学でした。只、筆者が書き足したとしたら、往時の翁の生活、又は歌人人生にとって何か関係があるのではと感じとってアドバイス通り調べを続けておりました。

◆弓町より梨木坂へ之道開

,修慮紊癲⊃А晃顛泙鮓て見るのですが「炭団坂」)が無い頃、弓町より「梨木坂」へと繋がっている道は。寛文11(1671)年の「新板江戸外絵図(寛文図)」を見ても「付け木店」からの道、また三層重ね地図にあるようにもしあったなら(確認が出来ていないため)真光寺境内を抜け、つづら折りの坂か、階段にて、玉川一郎氏生誕の地の近くに出で、東大下水を渡り「附け木店」からの降り口、明治ならば「利根川自転車屋」(最近なら「八百幸」)当たりに合流する道順。そして一般的な余語良琢屋敷(よごりょうたくやしき)前を通って来る「本妙寺坂」、今一つはもしあったなら「鐙坂」を下り大下水を渡る『菊坂橋』の様な橋を含む幾つかの橋を渡らなければ、「梨木坂」には戻れない、今まであった「名のある坂」の水の流れつきが変わったのなら、逆に「本妙寺坂」「鐙坂」など、の流れ付き変わりと、坂の名前を明記したのでは無いでしょうか。

●逆に、「炭団坂」では無い、という理由と証拠を先に聞かせていただきたくなって参りました。   当初 『戸田茂睡と炭団坂』 では、戸田茂睡翁の御当代記記載と『沿革図書』の元禄16年(1703)〜宝永元年(1704)年の間の、記載矛盾を挙げたつもりなのですが・・・。          如何な物なのでしょう。 

横関英一先生が教えて下さったように。天保(1830〜1843)頃の写本「江戸大名町案内」にある、風流な別名「初音坂」とも呼ばれるようになる愛すべき坂だが、云わば広く言われている「炭団坂」と云う坂の名前が付く前が在ったわけで、雨が降れば雨水が一筋流れ、乾いている時は、その道を人が通って大下水の流れと平行する、細い菊坂の下道へと抜けていたのではないかと考えているのです。 それが元禄九年の町屋が開かれるに併せて東大下水が整備され、同時にまだ名前がなかった「炭団坂」となる「初音坂」は、少し手が加えられ、何時も安心して通れるように流れを脇に寄せ道らしくなったのが、元禄10年(1697)二月十日であり、水戸様火事により一変した土地が再下賜される際、道が整備されその様相を整えられたのが『沿革図書』宝永元年にあたる道なのでは、ないのでしょうか。         与太郎の戯言…

−−−−−−−−−−−−−− <■本郷古図を探る!>−−−−−−−−−−−−−

                          <菊坂の与太郎資料>より H180928〜190113

○長 泉 寺 1636(寛永13)年丙子 類火ミ◎水戸藩「後楽屋敷」関連

○本 妙 寺 1636(寛永13)年丙子 類火ミ(東京史29-467)◎水戸藩「後楽屋敷」関連

・本郷丸山本妙寺へ移動している。

・本郷丸山本妙寺付近から明暦3年(1657年)1月18日昼過ぎ出火

○法真寺 和順山、歡喜院・浄土宗 京都知恩院末 奥駐車場に古墓石壁使用有。

○永 福 寺 1664(寛文四)年辰〜1717(享保ニ)丙申迄

・後、明治の地図にも「永福寺」名、記載有り。謎注意

○喜 福 寺 1591(天正19)年以前よりあった、詳しくは不明。

★気になった特徴★

・補修後の重ね書き

・小笠原佐渡之屋敷敷地面積及び付木店等道路位置の相違

・虫食い補修跡

・明らかになった、当時の橋の位置

 「不求橋」位置が判明?

・道造屋敷表記 1698(元禄11)年 町方支配、本郷菊坂道造屋敷

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◆本多中務大輔屋敷下屋敷(中屋敷の記載?)

※1670(寛文10)年庚戌 本多正勝の時「黒田勘解由」ヨリ2萬3.200坪4.500両にて買求メ、世々傳セリ。(大邸記、本多中務大輔下屋敷森川宿坪数弐萬3.173坪表記) 東京市史稿 岡崎藩P470

◎◆小笠原佐渡守屋敷 / ×◆松平加賀守屋敷◆近藤守屋敷

◆本郷丸山阿部屋敷 ※1610(慶長15)年武蔵鳩谷領主であった阿部正次は、本郷丸山に下屋敷を拝領した。★貞享年間につくられた『丸山由緒記』によれば、湯島郷のうちの本郷に、丸子氏という中世武士の居館があり、元亀年間までその子孫が住んでいたという。『丸山由緒記』※文京区史 巻一、452頁参照 ★丸山丸塚の訛りとする説あり★『鎌倉大草紙』などに見える豊島左衛門尉平信盛の一族には、練馬・平塚・丸塚氏があり、平塚は駒込と西ヶ原の間にある平塚明神の付近。丸塚(円塚)は、今の本郷丸山であろうという(『兎園小説外集』) ★いずれにしても、阿部氏が下屋敷を拝領した頃の丸山は、そうした中世武士の居館の跡をとどめた百姓地であったろう。◆典拠:文京区史 二巻・近世P53より

◎『丸山由緒記』 の所在について・・・長年不明でありました『丸山由緒記』が複写ではありますが東京大学埋蔵文化財調査室 原氏の御努力で閲覧出来る事が分りました。感謝です。 東京都公文書館が所蔵しています。尚、同氏より◎東大総合研究博物館にて、「弥生町」をテーマに展示が今春、平成23年の4月16日(土)から6月19(日)まで開催される予定という情報です。謎の多い一高跡に位置していた「水戸屋敷」がその姿を現すとのこと、展示は「弥生時代から近現代までの向ヶ岡弥生町をテーマに展示」するそうです。史跡見学会、ワークショップ等も企画しておられるとの事、参加して共に学びましょう。   H23 補完と追記 ・・・・菊坂の与太郎(紫雲)

∋では・・・○吉祥寺が、既に吉祥寺橋(現水道橋)脇より移動している。明暦の大火以後類火による移動。

○喜福寺 喜福寺門前は、1591(天正19)年に本郷辺の代官沢四郎右衛門の取次で拝領

     地、1605(慶長十)年より門前家作を造り代官支配領となった(「文政町方書」)

     文京区史 二巻・ 近世P48  16番地、古峰山、禅宗祥雲寺末

○本妙寺 1636(寛永13)年丙子、小石川より本郷丸山に移る。

     当寺は、1571(元亀ニ)年駿河の国より。P90

 ※https://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/shoukai/jiinnshoukai.html より

1590(天正18)年家康公が関東奉行として江戸入城に際して、

当山も久世家、大久保家等と共に江戸へ移転した。

当初は江戸城清水御門内の礫川町へ移建されたが、城域拡張に伴い

飯田町、牛込御門内、小石川(今の後楽園)へと移動させられている。

二代目以降の住職もまた学徳高く前記久世、大久保、阿部等幕臣の

帰依を得てその外護により伽藍も整備されたが、

1636(寛永13)年類火の為全焼した。

その後、久世大和守広之の尽力により本郷丸山に替地をうけ、約6000坪の

境内に九間四面の本堂や千仏堂、客殿、書院、庫裡、鐘楼、

山門等完備し、塔頭寺院も十二と七堂伽藍の整った大寺院として復興した。

しかるに僅か数年後の1657(明暦三)年正月十八日<明暦の大火によって悉く焼失した。

しかし、大火から3年後に、客殿、庫裏を、6年後には本堂を復興した。

・明治43年(1910)巣鴨へ移転するまで本郷丸山にあった。

・現在も文京区本郷4丁目付近に『本妙寺坂』なる地名が残る。

○長泉寺 寛永13年(1636)小石川金杉より本郷丸山に移とある。

・祥雲寺末開基は永禄三年(1560) P99

・水戸藩後楽屋敷関連か「水戸光圀」が、三度来訪している。

・鴎外の「伊澤欄軒」 「渋江抽斎」にも注目されたい。

○法 真 寺 1596(慶長元)年知恩院より寺号附与される、浄土宗  和順山開山は不明。

  「腰衣観音」も現存。明治の文人「樋口一葉」女史ゆかりの寺である。

   本郷通りより法真寺に向かって左手前隣(現在駐車場)に明治九年、引越して来た

   樋口家は10歳までの5年間幸せな一時を過ごした。

 法 真 寺のHPによると※https://www.hoshinji.jp/ 徳川家康公の御台所「天野図書」が、同家下屋敷を寄進(法真寺殿歓譽西喜大禅定門 寛永十年五月二十日寂)、寺の開基。 天保九年一月十六日に類焼、本堂は天保十年4月二十九日建てたものだそうです。

○永福寺 寛文四年辰(1664)大火に遭い小石川白山より喜福寺

     境内へ移る〜

     元禄五年(1692)壬申10月03日浅井了意元禄4(1691)

     年卒後〜享保ニ丙申(1717)また大火に遭う。

     東本願寺末

     ★明治期同地に再び永福寺名を認む。(三層重ね地図)

 (府備続編巻之146・巻之147 修験280 寿林寺・永福寺より抜粋)

○喜福寺  天正19年、

     詳しくは別の項で。

C録浹載方法

・「炭団坂」の記載あり。関連御富代記元禄10年・宝永元年以降

・「本郷」又は「本々」記載の件

※「本々」記載は尾張屋版絵図万延(1860/61)頃に良く見られた。

に楸晋徹嘆杏澆梁減

・現在本妙寺坂と春日通の角地、ファイャーハウスの入っているサン

 ファミリー本郷と ライオンズマンション本郷・ダイヤパレス真砂

 辺りには春日通りが拡張する前「真砂湯」小川真由美ちゃんの家が

 ここにあり。丸山方向へ、上れば(本妙寺坂方向/北)真砂湯・真砂

  裁縫学校・真砂小学校となっていた。 ※別写真資料

・嘉永二年酉(1849)地図には※余語良琢屋敷(よごりょうたくやしき)

 とある元々寄合い医師余語古庵の屋敷で後古庵(コアン)屋敷と呼んだ

 とある。              ※別古地図資料

●東京名所図会 【余語古庵屋敷】

これは寄合医師余語古庵の先祖、寶永元年7月27日幕府より賜った物

坪数は426坪三勺ニ才。其の半ばを住地とし、其の半ばを町屋敷とす。

同年11月15日町奉行の支配に属し、其の時より「本郷古庵屋敷」と唱う。

     新撰東京名所圖會四八編P83明治四〇年発行に記載がある。

●東京市史稿 15巻-671 【余語元善】寶永元年7/27

 本郷御弓町 余語古庵 元善屋敷 坪数五百坪。

 同文中に。「余語古庵内 新谷佐五右衛門 印」とある。

※下、鴎外の『伊沢蘭軒』により、世襲二代目と思慮される。

●森鴎外『伊沢蘭軒』【余語良仙】

・余語氏は世古庵の号を襲いだものである、古庵一に觚庵も作ったか.

 当時武鑑には「五百石、奥詰御医帥、余語良仙、本郷弓町」記載有

 余語良仙、本郷弓町、奥詰御医帥

 首夏与余語天錫

 与余語天錫

 上巳与余語觚庵犬冢吉人

 ・余語氏の塋域

 駒込竜光寺に余語氏の塋域のあることを報じてくれた。

1695

 第一「法眼古庵余語先生墓、元禄八乙亥年三月十九日卒、孝子元善建」

1735

 第二「現寿堂法眼瑞善先生余語君墓、享保二十年七月十五日卒七十二」

1778

 第三「天寧斎余語古庵先生墓、安永七年八月二十二日卒、七十歳」

1814

 第四「拙存斎余吾良仙瑞成先生墓、文化11年四月四日卒去、六十二歳」

1848

 第五「蔵修斎前侍医瑞典法眼余語君墓、嘉永元戊申四月十日」

                     の五墓を見たとある。

◆引用

そして天錫は或は瑞典かと云つてゐる。弟の書には竜光寺境内の図が

あって、余語の塋域は群墓の中央にある。わたくしの曾て訪うた安井

息軒の冢子(チヨウシ)朝隆(テウリウ)と其妻との墓の辺である。

程近い寺だから、直に往つて観た。余語氏の諸墓は果して安井夫妻の

墓の隣にあつた。しかし今存してゐるものは第四第五の二石のみで、

第四には「拙存斎余吾良仙瑞成先生墓」と題してある。第一第二第三

の三石は既に除き去られたのであらう。天錫の事は姑(しばら)く

弟の説に従って置く。          「伊沢蘭軒」森鴎外より

ニ楸慎萄簔之内『道造り屋敷??(残地)』表記の発見

   ↓ ↓  

・「菊坂上納屋敷」⇔「本郷丸山局見世長屋」

※理由:上納屋敷となったその頃からBGの検索がある。

◎経緯はこうである。

・長禄年間(1457-1460)ここいらは菊畑が広がる片側町であった、坂の

 上の方を菊坂台町、坂下の方を菊坂町と称した。

・1628(寛永5)年菊坂田町と共に、中間方大縄拝領地となった。

・1658(万治元)年一月十日 万治の大火に遭い、吉祥寺移転

・1696(元禄九)年に菊坂に町屋が許され、当町の「仁兵衛」他15名が

 当時の道奉行「武島次郎左衛門」「伊勢平八郎」にナダレ地の造成利用

 を申請し、翌年工事を俊成。雪崩地延長、205間、奥行 3〜4間半の

 長〜い一つの長屋が、完成する。

・1698(元禄11)年町方支配となりて、本郷菊坂道造屋敷と唱え先の16

 名で所有していた。

・1703(元禄16)年 水戸様火事

・1704(宝永元)年 ・「小笠原佐渡守屋敷」1704(宝永)〜1858(安政)

     年にまた上地され、■「信濃上田藩松平家屋敷」の所有となる。

・1741頃(寛保年間)本郷菊坂道造屋敷公収され、召上げ

〇経過不明なるも、霊岸島四日市町家持「善兵衛」と云う者が16人中15

 人分の地券を取得。その者御蔵米廻船御用を請負し折本郷菊坂道造

 屋敷を質に差出していた 。☆※ここに注目☆右御用不埓(フラチ)に付

 御勘定奉行所御懸かりにより寛保年間(1741頃)故ありて公収され、

  召上げられた。過日、延享元年甲子(1744)入札の御触れあり。

・1744(延享元)年甲子入札の御触れ

●『道造屋敷』競売される。 

 結果、當町「安右衛門」「権左衛門」と決まり、のち上納請負が命ぜら

 れ「菊坂上納屋敷」と云うようになった。

            ※「本郷丸山局見世長屋」・・・別資料あり。

◎1799(寛政11)年己未11月18日北大番所「小田切土佐守様」御懸りにて

  右地所の町屋御取払いの上、武士地にし延長百八十八間余り、裏行

 三間より五間迄不同の場所、同十二月申年2月24日、御普請方へと

 御引渡しに相成りその後旗本及び小役人の拝領地とした。

    (府内備考P126-127)       (東京名所図会P83・89下より)

尚、【道造屋敷残地】に、関する他の記述は。

◎本郷菊坂町〇町名の起源と沿革の項に

 ※明治ニ年、道造屋敷の残地及び本郷四丁目五丁目の代地を併せ、

 また傍近の土地を合して其の町域を拡張せり。とある。

                    (東京名所図会P88上より)

   

■典拠資料

■新撰「東京名所圖會」

■文政「江戸町細見」

■「本郷古図」

Kai-Wai 散策 のmasaさんのブログ

 (図版追加)2005年12月08日     「本妙寺坂のある谷戸」

■本郷古図を探る!侠K楸晋顛泙鮹気!…菊坂の与太郎資料

(東大下水・本妙寺谷界隈関連) 「上納屋敷」本郷丸山局見せ長屋篇 

■特に※真砂図書館の優れた司書の方々、

■町内古老・他町会の皆様の御協力に感謝致します。      菊坂の与太郎

  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  《予定》『戸田茂睡と炭団坂』

※次回は、以前作成した「本郷界隈年表」を基礎に「戸田茂睡」翁を通して『戸田茂睡と炭団坂』、を書いてみたいと思います。しかし◆故ありて公収され競売される。『本郷 菊坂道造屋敷』に、何がおこったのでしょう、そこには時代劇によくある一大ドラマが見え隠れしている気がしませんか謎は深まる一方ですがまた時が満ちたら、書くことにしたいと思います。 御静聴ありがとうございました。

               本郷 菊坂の与太郎  H200427