本郷の回覧板

昔空間散歩の薦め

  -菊坂の与太郎シリーズ-

本郷にあった富士山

 

 

■【富士権現】なる丸塚を追う(富士浅間神社)

昔々、いつの頃からかはしらねども、神田山の近く本郷には、小山がありました。その山の上に一本(もと)の大きな木が生えていたそうな。その木のもとに一度(ヒトタビ)民人近づけば必ずたたりありと言い伝えがあったそうな・・・。

 昔「武州豊嶋郡 峡田領本郷村(江戸庄)」とも呼ばれたこの一帯本郷は、治世も豊島氏より大田氏に変わった頃。長禄元年(1457)丁(ひのと)丑(うし)大田道灌が江戸城を築城し、「武蔵野国の国府」(今の府中駅南口第三地区再開発地区)から移す事にあいなりました。

其の頃の江戸は、長禄江府図会にあるように河川や、池・殆どが水浸し「茅の湿地状態」で江戸城の周りに、生活の利便性(川・泉・井戸・池)などを中心にとした生活し易い場所が矢田早雲に因ると散逸的に、集落があるという状態でした。それらが時の移ろいと共に広がり、また神社仏閣もそれらを中心に広がっていったものと思われます。府内備考巻35-P124上段中程によれば本郷起立の儀は長禄年中とありますが、この頃旧本郷はと云うとまだ湯島の一つで、当時から神田(将門のからだ)山と同じ台地の続きにありました。そんな本郷台地がひょっこり瓢箪島のように独立したかの様に見える、特長のある地図に近ずこうとKaiwaiのmasaさんにお願いしたところ、手持ちの資料で水没図を作って下さいました。

すると、恐れていた通り世の治世の代が変わったように、風景が変わり、長年の時のうつろいと共に雰囲気はあるもののスバリと云うわけには行かない結果でした。それも其のはず。江戸を作り拡張する為長い年月を掛けて削られ。また多くの埋め立てが行われたのですから・・・。

そて、神田山の切崩しもその一つでしょう。また江戸城構築に使われた大量の石垣の石は、各地から運ばれていたとも聞き及んでいます。遠くは、小豆島から御影石が、近場ではあの「お宮&寛一」で有名な熱海や真鶴町旧岩村の小松石、そして熱海沖の初島辺りからも石運搬用の船にて運ばれていたらしく、今でも稲取港では当時の予備の築城石10個が、寛永6年(1629)最後の船積み後も残されていると云うことです。※https://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-enmt/edojo/ishi.htmlに書かれておりました。しかし良くこれだけ調べ上げた物です、関心です。

閑話休題、水没図を作成して貰い、一点気になる問題が起こりました。遷座した筈の富士浅間神社が現在ある、春日町通り沿い、奥懐徳館(迎賓館)内部に谷頭らしき物が存在していたからです。勿論、加賀藩邸時代ここには加賀鳶の盲長屋が建ち並び生活していたわけですから専門家に云わせればそんなことは考えなくて良いことかもしれません。勿論、この築山は廃藩置県後、天皇の御行を意識し、懐徳館を作る際に築山された物とは百も承知しているからです。

ですが、遷座合祀したのに何故現在の小さな公園を有する【元富士権現稲荷社】がここに存在しているのか?

(祀なのか?、土田町会長さんや元富士町会の方からお聴き致しました処、現在の祠は最初、東向きに作られていたそうです、その後今の方向に建て替えられたという話です。戦中はレンガにより高く覆われた防火壁で守られていたということです。その痕跡は今もあります。 現在は、六月から七月に変わったものの、先祖より山開きの神事を伝承し、真摯にとり行なっている本富士町会の方々は、ウ〜ン素晴らしいなと思いました。加賀藩に下賜され簡単な囲いと管理小屋を建てたぐらいで暫く放置され荒地になっていたそうです。ところが大手門近くの屋敷が損失した為。正式に加賀前田藩が上屋敷として建築したそうです・・が、敷地内に丸塚が残っている為、藩邸となったのに屋敷内の富士詣でに訪れる信者が藩邸の門より出入りする為、警備事情から快く思っておりませんでした。 

■寛永六年(1629)己(つちのと)巳(み・へび)幕府より加賀藩に現在の東京大学(旧帝大)の場所が下賜されましたが、暫くは簡単な囲いと管理小屋を建てたぐらいで放置されており、荒地になっていたそうです。今の赤門近く、そこには『富士浅間神社』なる丸塚が昔からあって、下賜された後も富士講のメッカとして変わりなく富士詣が行なわれていました。そこへ金澤で大飢饉が起こり、その領民を救う為、藩の行政救済処置一貫として、当地に屋敷の土台普請を創めていたところ折もおり大手門近くの上屋敷が焼失し、そこで正式にこの土地を加賀前田藩の上屋敷として決め、建築したそうです・・

しかし結果的に屋敷内に取り入れられた形となった『丸塚』ですが、富士詣に訪れる信者が絶えなかった為、そんな参拝を警備事情から加賀藩は心良く思っておりませんでした。遷座,修海悩能蕕蓮富士権現の神事を代行していた、本郷三丁目交叉点裏にあった天台宗、富光山瑞泉院『真光寺』(旧弓町地名)の境内に一旦移したのです。が、この地は※不浄の地とのお告げにより。 今の駒込(元富士権現)に合祀遷座されたそうです。 

富士講は地元民より、周辺地域からの信者で維持されていた背景があります。

■不浄の地とは?        富士権現の神事を代行していた、現本郷三丁目交叉点裏付近にあった天台宗、富光山瑞泉院『真光寺』(旧弓町)の境内敷地内に一旦移したそうです。ところが※不浄の地とのお告げにより。今の駒込(元富士権現)に合祀遷座されたそうです。

※以前、第4回『東大下水』をたどる  副題 戸田茂睡-『不求(もとめず)の橋』を尋ねて-でお書きしたような理由が心当たります。そこで現在の駒込富士、元からあった富士山に遷座合祀された物と考えられています。 

さて以前『東大下水』をたどるで、調べが進むうち「元富士浅間神社」は、現在春日通りに面する小さな公園のある「元富士浅間神社」の場所では無く、現在の「赤門」から入った右辺りにあった現在「経済学部」の建物が建っているところだったと分かって来ました。また、赤門は建て直した際に15m程、今の赤門位置よりキャンパス寄りに門がズレていたということです。

そう云えばそこには昭和三十九年迄「椿山」があったと聞きます。それが本当の元富士浅間神社の祖だったようです。前から引っかかっていた【富士権現】についてここで、もう少し詳しく考証してみましょう。 

天正元年(1573)癸(みずのと)酉(とり)五月下旬霊夢

本郷村名主木村万右衛門,同牛久保隼人の二人が,霊夢に木花咲耶姫命を見て,翌年駿河の富士浅間社を勧請(かんじょう)した。

富士神社はもともと、本郷村(現東京大学構内)にあった。

天正元年(1573)7月19日 【室町幕府滅亡】

織田信長が足利義昭を河内に追放、室町幕府が滅亡。

天正18年(1590)庚(かのえ)寅(とら)徳川家康江戸入り 

慶長八年(1603)癸(みずのと)卯(う)の年に六月に降雪

有志によって建てられた富士浅間神社、なんと先程の「真光寺」が神事を代行していたそうです。 ・・どうりで天台宗富元山瑞泉院『真光寺』と言うはずですね。

寛永六年(1629)己(つちのと)巳(み・へび)加賀藩下賜

文政十年(1827)に溶(ヤス)姫を迎える為に御守殿門【赤門】

◎明治43年発行の、新撰 東京名所図会に、今小祠を存ず、先年前田侯爵、邸宅改築の際,他にコレを遷さんと欲す。 旧加賀鳶、先年最後の加賀鳶『松島彦八』氏は乞うて、森川町の自宅に祀れり、だが幾何もなく神威を畏れ、侯爵邸に復すとある。多分東京大空襲で焼けた侯爵邸が完成した為であろうか。つまり現在ある「浅間社」は、公爵邸完成以後再び今の地にもどされたことになる。だが、逆に公爵邸に着手するまではどこに祀られていたのか、そしてそれはいつ頃からだろうか、(富士浅間神社)現在の敷地に、江戸期には幕府より弾圧を受けた嘉永七年寅年の手水鉢があり南長屋一同を初め本富士町会で維持している敷地内にあるのが、何かのヒントになるのではと、今も気に掛かっている与太郎である。・・謎はさらに深まる一方であ。。

昭和三十九(1964)年に経済学部が新築されたおり取り壊し

昭和四十年(1965)経済学部の新館建築、椿山と共に伐採

■他の椋の木・古墳情報

h香川県大川郡西部の5つの町(津田町、大川町、志度町、寒川町、長尾町)

さぬき市長尾西2525-2ttp://ew.sanuki.ne.jp/bunkazai/shiseki0.html

https://ew.sanuki.ne.jp/bunkazai/shisek11.html

長尾地区の古墳

◎東京大学(旧加賀藩邸)敷地について

         <菊坂の与太郎資料>より   H181213〜H190114

この地は本郷通りに面し、昔の岩槻街道つまり日光への御成街道また、中仙道にも連なる要所であり古くは土地の酋長時代、豊島一族「豊島信成」が居城らしく後、大久保彦左衛門の甥「大久保忠隣」が所有していたが本多の陰謀(とされている)に遭い没落、廃地となっていた。大阪の陣の褒美に利常に下賜それた。もう一つの節は、藤堂家の領地だったこの辺りを、神田明神下の所領藤堂家訪問の際交換する運びとなったとも聞いております。そうだとすると、本郷三丁目の交番裏「真光寺」との位置関係からかなり納得する線が浮かび上がってくるのですがいまだ資料が足らず調査中です。

・1614(慶長19)年前田家には、下屋敷としてこれらの土地が拝領された。

 屋敷守、下僕の小屋を設ける位で放置してあった。

・1626(寛永三)年、やっと四囲に板塀を巡らした。

・1627(寛永四)年、富山と大聖寺の公子や隠居を迎えるべく普請がおこなわれ、金沢から移った。

■東京大学(旧加賀藩邸)敷地内の『富士権現』について・・・資料

だが現存する赤門に近い経済学部敷地には、1573(天正元)年五月の頃より記録がある、小さい山(丸)円山が以前から存在していた。それは、前述した

◎先史代この辺りを支配していた酋長か、豊島一族の「豊島信(成/盛)」の古墳が今の赤門内にありました。 (本富士警察署100年記念引用)

また一説には弥生土器出土地域の近辺でもあり、弥生後期以降の古墳時代、(四世紀初〜七世紀迄)の物とも考えられている。「文京のあゆみ」より

最近では、「太田新六郎康資(後北条氏の支配時代の本郷」の城が(旧加賀藩邸)敷地にあったのではと2006年1月6日(金)のビジネスマンのための東京情報 NO.84 東 京 の 城 址(1)に「浅草閑人」氏が述べておられます。●後発の本郷城のHPにはまた、丸塚氏の城郭という説もある。と紹介されています。)

その山の上に、一本(もと)の大きな木が生えていた。諸人(江戸名所記/新撰東京名所圖會

表記)此の木のもとに立寄れば必ずたたりありと言われていた。

※[江戸砂子 巻の三、人民そのもとによれば必ずたたりあり・・・]と云い伝えられていた

ことを記しています。

□赤門を入れば椿の林かな。(子規)明治期頃には「椿山古墳」と.呼ばれるようになりました。

・椿山は当時、直径20mほどの小丘で、山頂は上野広小路「松坂屋屋上」と丁度同じ高さで

 あった。    (玉川一郎氏推薦、手焼きせんべい「草加堂」にて聴取、近隣の住民談)

・富士山(椿山)の頂上にあった一本(もと)の木とは・・「椋の木」で(輪切りの幹、資料在り)

                      ※四季「本郷」文と雪の椿山写真アリ 

 

◆丸(円)山発掘関連資料!!

・椿山古墳は、明治18年夏、有坂?蔵によって発掘が試みられた。

  <「考古学懐旧談」人類雑誌 38巻第五号 

             大正12年・「思ひ出」同誌41巻ニ号 大正15年>

・あるとき駒場の農学校の学生福家梅太郎と言う人が椿山は古墳であるといって、許可を得て自分で鋤鍬を把って掘った。私は始終見に行った。そのうち勾玉か石棺が出てくるだろうと言っていたが何も出なかったと書いている。

※『雲荘随筆』(入沢達吉)著 赤門前町会ニュース「我が町のこと」第176号 記松岡先生

◎それはそうだ、もう勧請する時点で掘り起こされているわけだからである。それを忘れてしまっているようだ。菊坂の与太郎 (紫雲)

工事!!未整理中・・・・・・・