■本郷の回覧板

昔空間散歩の薦め

本郷 −菊坂の与太郎

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『一葉忌』


 

『一葉忌』 本郷三丁目 界隈【H20年版

◆<起点御案内>   ・「法真寺」 桜木の宿より出発は H21年版第30回一葉忌

□プロローグ 2007年秋、櫻木神社を調査している際石灯籠を眺めている方をお見受け致しました。お声を掛けると清瀬の郷土史会の方、鳥居の造詣について興味のあるお話を聞かせていただきました。それが縁で、メールのやりとりもありお友達になっていただきました。名前を(わび亭)さんと申します。またいつか菊坂でお逢いするのを楽しみにしていますよ。・巡り来る  季節待ちわび  紫陽花は  輝き渡る  時を迎えし(わび亭

■そして「一葉忌」に素敵な遊諧師と再会しました。・巡り来て 櫻木の縁 尋ぬれば 炭団の紅葉 再び燃ゆる (さび亭)ということになりました。幸せでした。一葉忌に来ていただいた翌日11/24は、わび亭氏に招かれ清瀬へ・・野火止の庵にて素敵な音楽と、呈茶を頂き、さらにお友達の経営される「手打ち蕎麦」に預かり、界隈を(さび亭)は俳諧ならぬ徘徊をしてまいりました。電気王、松永(耳庵)の残してくれた庵(現・新座市が管理)で繰り広げられたVnとギターの柔らかい和(なごみの)心温まる音でした。 手持ち撮影で見難いですが、その恵みのお裾分けです素敵な音楽をお聞きになりながら、お読み下さい。)

   

  11/24日収録「睡足軒」のコンサート+野火止の「平林寺」へ行きました。

■第一部「一葉さんこんにちは」

 ●基点 丸の内線 『本郷三丁目駅』 ホームから上がり、身支度(洗面)を済ませたらイヨイヨ改札を出ましょう。★この駅は待ち合わせにピッタリ、なにせ改札が一つです。スタート時間にもよりますが、「法真寺」の「一葉忌」毎年9時半から始まります。まずは「法真寺」へ向かいましょう。

_札を右に出て名曲喫茶「麦」の前を通り本郷通りに出ます。

通りに出て左、「本郷三丁目交差点」に向かい歩きます。

本郷三丁目交差点では、老舗「かねやす」が渡る手前にあります。

勿論、樋口一葉がいたこの頃は、まだ市街車電車(開通は、須田町線がM37/01・上野広小路線は、M37/11)軌道も本郷三丁目には無い頃で、明治22年迄の拡張前は老舗『かねやす』も「三原堂」のもっと横断歩道側にあったわけです。

★明治24年8月3日「かねやす」にて小間物をととのふ、日暮れて帰る」とある。

 丁度、その頃の本郷三丁目の写真があるので小さいですが情報として載せておきます。 ・その2ヶ月後の明治24年10月15日仙臺堀は神田川の、上水樋橋の下流に、新しい橋が架かりました、その橋は鉄で出来た現在の「新御茶ノ水橋」です。開通、その二日後。★明治24年10月15日「今宵は旧菊月十五日なり。・・・いでやお茶の水橋の開橋になりためるを行みんなはなど国子にいざなはれて、母君もみてこなどの給ふに家をば出でぬ。」とある。M24/1以降の春日通り(蔵書 ふるさとの想い出 写真集 MTS 文京 P25より)国書刊行会発行

現在の『かねやす』前を通り、横断歩道を渡るとサファリ帽を被った素敵な髭のお巡りさんがいた本郷四丁目の交番、その裏左手奥には、一葉(なつ)・クニらが散策した【本郷薬師】が見える。

★明治26年3月12日のよもぎふ日記に

「今宵」くに子と共に薬師の縁日そぞろありきす。」とあります。でも今は寄らないで直進。足元に気をつけると緩やかな下り坂《見送り坂》「橋南三丁目」美味しい甘食の「明月堂」前を通る、そして昔の太田領の境であった【東大下水支流】の橋跡を渡りパチンコ屋さん前を通ると、菊坂通り入口に差し掛かります。「東大赤門前」へ向かう・・すると緩やかな上り坂これを《見返り坂》「橋北五丁目」と云います。

そのまま直進して行くと道路反対、なにやらTVで見たビル。『角川書店』ビルです。今度は、左手にちょっと凹んだところが在ります・大正10年 (1921) 1月上京、同年8月まで「宮沢賢治」が菊坂下道に下宿し生活の糧に、文信社(現大学堂メガネ店)硬筆(ガリ切)、謄写版刷りの筆耕や校正などをした出版社前を通過。※別情報あり

もう右手先には東大赤門が見えていることと思います。アト、ちょっとです写真屋さんが左にありますか? あれば間違っていません。この写真屋さん『須藤カメラ店』は、先のノーベル物理学賞受賞したカミオカンデで有名な小柴先生や皇太子妃雅子さまの記念写真を撮影した写真屋さんです。

赤門前の和菓子「扇屋」前を通過し、赤門ビル角「今はコンビニ」を左に曲がり奥へ進みます。左に急に開ける駐車場が『櫻木の宿跡』ですその奥が「法真寺」受付で記帳し、到着です。※今回わび亭さんとは昨年、お逢いした「櫻木神社」前で、お会いし薬師堂前を通過法真寺へ向かいました。 H20.11/23 与) 

1876(M9)-「法真寺」手前 一葉4歳が幼い時幸せな時を過ごした大切な場所。

■御守殿門内部から見た【櫻木の宿】修復を待つ赤門内から 1925(大正14)年の写真の右側が「赤門ビル」その間にかわら屋根の二階家がある。櫻木の宿が何時、壊され建て直されたか判らないが馬車と一号ポストがあるビルとの間、路地奥に見えるのがひょっとすると、櫻木の宿内の3坪程の瓦葺二階家屋部分かも知れない。.  

⇔1925(大正14)年 修復を待つ「赤門」より 本部施設部所蔵写真よりトリミング  法真寺に隣接したi庭にはシンボルの櫻の木と池そして倉もある、二階屋に一葉一家は住んでいた。経済的にも家庭的にも恵まれていた時代、M10元町に存在する頃の「旧・本郷小」から秋には家の近く、私立吉川小学校へ通った。★「ゆく雲」 『上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて寺内広々と桃桜いろいろ植 わたしたれば、此方の二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろも観音さま濡れ仏にておはします御肩のあたり 膝のあたり、はらはらと花散りこぼれ・・・』とある。※また福満氏の話では法真寺入り口の角、医療器具屋の「お婆さん」が幼い頃「なつ」ちゃんと遊んだと話していたそうである。

「附木店」 1877(M10)03 旧・本郷学校に入学後、秋に近所の私立【吉川学校】に入学。

ぁ嵒垉甼供廖嵋槎寺谷」-「番所跡」-「本郷丸山局店」

ァ峇飮劃漫廖擴柴察杪膕漆紊療時を偲びながら歩く。

Φ楝賢治の菊坂下宿前通過

А崔挫頂筺弉爾瞭鹽辺三角形

─屬泙舛里┐」そして、一葉井戸界隈70及び69へ

・1883(M16)11歳の時青海学校小学高等四級首席で卒業するも母の反対に遭い退学する。

・1886(M19)中島歌子の歌塾{萩の舎}に入門-1889(M22)17歳の時父が事業失敗後、病没。  母そして妹クニと共に次兄「虎之助」宅へ同居するが折り合い悪し×

・1890(M23)09 懐かしの本郷區へ    ・・選んだのは菊坂であった。

 

■第二部「一葉さんこんにちは」

一葉井戸近くの最初の家70番地に転居したのでした。その後69番地に移ります。  

真砂町・鐙坂の事。

伊勢屋質店内見学をし姉の久保木方位置確認 ・1893(M26)2/1下谷區龍泉寺町に転居、荒物・駄菓子屋を営む。

1896(M29)24歳「たけくらべ」を「文芸倶楽部」に発表。11/23日肺結核にて没。

偲びつつ終焉の地を訪ねたいと思っております。      菊坂の与太郎・・・つづく

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11月23日は、『一葉忌』です。赤門前の「櫻木の宿」隣の「法真寺」はいつも通りです。

到着時間にもよりますが、本郷三丁目から〜東大赤門前の「法真寺」でお線香を手向け、来た道を少し戻り宮田花店脇の「旧・附け木店」と呼ばれていた道を通り、最初の変形四差路で立ち止ります。

右側地帯が「附け木店」と呼ばれていたところで右に曲がる一・二軒目辺りが稲葉家、

昔のお姫様であった「稲葉鉱」一葉とは乳姉妹(お母さんの乳房を分けた間柄)です。

その隣には(上)大昔の地図に、羊羹の「藤むら」位置と書込みがあるところです。

 変形四差路から、また歩き始め、金魚坂で有名な江戸時代から続く問屋「吉田金

魚店」の前を通り、さらに進み右コインランドリー前を通過すると反対側の壁面に、

眼を奪われることでありましょう。

 何故にと思う所に「棟方志功」との出会いがあり左に続く建物がある、そうここいらが『吉川学校』の位置で、昔の寺小屋延長の私塾でした。尚、右側には児童新聞・明治館なる物がありました。そのまま進むと行き止まりとなり、Tの字を左に降りて行きます。

すると、現在の「菊坂通り」に出ます。正式には本郷通りに面している「宇野千代」さんで有名な【燕楽軒】の角から伸びている左手の道は玉川一郎先生によると「菊坂の通り」又は「新道」と呼ばれているものです。

「新道」と呼ばれるようにこの道は明治22年に出来た道で、明治16年頃の参謀本部陸軍部測量局地図ではまだ道が有りません。それもその筈、加賀藩邸より流れ出「東大下水支流」が流れていたからで、遥か昔は船の通れる位の川で大田領との境ともいわれていた場所です。近世「東大下水支流」となった川は途中から軒下を通り、建物の裏を通って下道の入口近くまで暫く、姿を隠します。「新道」を右に進み、菊富士ホテルの記念碑創設にも係りのあるある魚よしの徳さんこと徳三さんのいらした店前は通りを挟んで「松坂屋」質店がありその隣奥には、数段の階段を登ると白い蒲鉾型の屋根を持つ門がありその奥に玉川一郎先生の終の棲家がございます。(図書出版手前)そして※旧・【柴田商店ビル】前の変形交差点に達します。この交差点、カーブミラーも付いております様に、ちょっとズレています。故に、衝突事故が多いのでお気をつけ下さい。 

●コレ、右に曲がり坂を上がりますと、近世では明暦の大火の火元とされた(汚名を被った説のある)「本妙寺」現在巣鴨に退転。や「長泉寺」に繋がる「名無し坂」」と呼ばれていた坂でその後「女子美の菊坂校舎」が「縮小していく本妙寺」の跡地敷地内に建ち、続いてあの坂を上がり切った左奥に、有名な文士・画家・政治家になった人々が住んでいた羽根田氏の「菊富士ホテル」へと繋がっています。その後ここは「地獄坂」と呼ばれた時期が有りオヤッと思われるでしょうが(後に本郷税務署・そして公認会計士会館となり、後現在のマンションへと昔の「本妙寺」総門辺りは変貌しています。)

詳しくはHP■『本妙寺跡』を尋ねて【本妙寺総門門前坂】にて・・・。

●コレ、左に曲がりますと、「本妙寺谷」となり昔は東大下水支流の為、遮られておりました。それが明暦の大火以後の地図には、現・本郷小学校又は男女平等センターへと行く「本妙寺坂」と呼ばれている坂に繋がっているのが確認されています。この「本妙寺谷」には東大下水支流に掛かる小渠、不求橋(もとめずの橋)という土橋が掛かっていました。橋は道幅よりも少し狭く、少し柴田商店寄りです。 

整理すると、本妙寺惣門に続く上り坂御門前を上がる時、左の角に「中村屋」と言うお蕎麦やさんがありますがその間に、「本妙寺谷」が在り、総門に対した上り坂が「本妙寺坂」という事です。 

さて、前で「東大下水支流」となった川は途中から軒下を通り、建物の裏を通って下道の入口近くまで暫く、姿を隠します。と書きましたがその東大下水支流がここ「本妙寺谷」で姿を現すのです。「本妙寺谷」の、不求橋(もとめずの橋)の下を流れる川は、菊坂通り下道(一部の書物に丸山通との記載も在る。)を通り、菊坂通り上道に平行して菊坂通り下道として菊水湯近くまで流れていきます。この※旧・【柴田商店ビル】は注目するべき場所で、御一新頃まで小石川養生所の所有地でもあり、「道造り屋敷の残地」そして最近、古地図で発見したことなのですが寛文時代にはなんと「番所」が存在しておりました。やはり特殊な土地でした。

実は、吉原や、湯島の大根畑が規制に遭い、この場所にはこの角店旧・【柴田商店ビル】辺りから、「長泉寺」前の下道への降り口まで、「本郷丸山局店長屋」が誕生していたのです。本来雪崩地だったものが道造り屋敷として、造成、整備された区画ですが。

●「本妙寺谷」ここは、海岸の入り江時代もあったようで急激に下って行きますが、まあ一葉忌に因んで、この東大下水支流の流れに沿って当時を偲びながら歩いて見て下さい。右側には道の半分位の東大下水支流の流れがあります、出来たら★道の左側半分を歩いてみて下さいね。そうそう、左側、「小笠原佐渡守屋敷」側の雪崩地は、伊賀者が住んでいたことがありますよ。興味のある方は調べてみて下さい。 

・下道の 枯れ葉踏みつつ 右京寄り 一葉女史も 歩む道なり

※丸山通は昭和二年頃、暗渠化されるまでは、加賀藩邸より出る「東大下水支流」が表を流れていました。従って宮沢賢治もこの大下水を避けて歩き、人生を見つめて過した事でしょう。

昔左側は、1.5m位の石垣が道なりに続いておりました。さて、右側では所々石垣が露出していたと思います、幅2-3cm程の筋が入っている布石積み、それがほぼ元禄期の道造り普請の跡のようです。これは家屋の後ろ側に同じ様相の石積みが続いていることから判ることです。 尚、東京大空襲の時、下道は、宮沢賢治の下宿した場所の手前隣、小さな井戸を挟んだ隣で焼止まったということで、米軍の空襲後調査写真と一致しています。

 

宮沢賢治の菊坂通り下道の下宿先を進み、菊水湯のエントツが見える辺り稲垣邸の切れたところ二等辺三角地点は、とても絵図証文の名残を感じる場所です。

NPO・雑歩庵の主宰する「まちのえき」そして現在開催されている「山内豊子 合間写真展 ―本郷―  2008.11.19〜11.24 10:00〜18:00 (24日のみ17:00) 入場無料 まちのえき隣「路地ギャラリー 夢のとおりみち」開催。ここの山内さんは、以前一葉が荒物・駄菓子屋を商っていた吉原大門近くから引っ越したら、なんと終焉の地に近かったという、一葉さんに縁のある、写真家です。 

■第二部

  「一葉さんこんにちは」昔空間散歩の薦め

■訪問致しました。◎一葉井戸近くの最初の家70番地に、到着。※今回は行き止まりの路地、私有地のため普通は「立ち入り禁止区域」 ★スペシャル★

以前発表した、不明だった「70番地の位置」少しでも一葉女史の生活空間を感じとりたい為、、隣の家(同番地)の管理者に御願いし、一葉一家が住んでいた隣から全体を把握、その今でも残っている昔空間散歩風の囁き・におい・雰囲気を体験して来ました。小さな青い屋根が目印です。 この場所で、何時か句会を模様したいものです。

丁度他の一葉ファンが井戸の辺りで、本来の位置を知らないようで、「あの階段の上左側辺りに住んで居たんだってよ・・」などと、周りに住んでいる居住者にお構いなく興奮したのか大きな声で喋っているグループが参りました。「シー!!」路地に入る前に解説や話は済ませておきましょうね御願いします。 この事から判るように。御近所さんの誰かが、井戸を使い始めるとその音、挨拶の声、井戸端会議の声がここ路地屋にも聞こえます。一葉一家も、おさんどん、洗濯などの度に、この人の集まる井戸に通ったことでしょうね。辺りは普段とても静かで、風の囁きが聞こえる空間です。風が吹くと窓ガラスが揺れガタガタと軽く鳴り、大風が吹くと木造の家を揺らす事でしょう。その代わり、朝方などは今も聞こえる「東叡山からの鐘の音」や、「鳥の囀り」に起こされたことでしょう。夜ともなると、70番地前の路地奥に、東側からの月光が射し込み、うす青く浮かぶまばらな路地の敷石、とても風情が在ります。 初冬の夜、きっとこんな光景を一葉も目にしたんだろうなあと、容易に妄想出来た与太郎です。「ああ、この下を樋口一葉一家が出入りをし。生活に悩み。1860年創業の伊勢屋質店へ通い。肩こりと偏頭痛に悩ませられながらもあの素敵な作品を生み出したのか・・と。・・・そして路地に入る角の二番目に住んだ菊坂下道に面する角の家も是非見て下さい。 そう、窓の外には細道とさっき避けて来た「大下水」が流れる菊坂下道が横たわっており。向かいの上道からの声が聞こえるのであろう。明治26年3月12日「我が家は細道一つ隔て、上道りの商人どもが勝手とむかひ合居たり。されば口さがなきものどもが常にいひかわすまさなごとどもいとよく聞ゆる」 よもぎふ日記

●一葉の菊坂通り下道・下宿先 70番地  / 69番地 (馬場胡蝶や樋口一葉事典は旧住所表記の取り違いによる間違いとのこと・・)決して、一葉井戸の先階段を上がった所ではない、階段を上がって鐙坂又は真砂町にあったのは明治27 年(1894)22歳: 2月「天啓顕真術会」(てんけいけんしんじゅつ)という新興宗教団体の久佐賀義孝、という怪しげな訪問先である。※Dr.黒石の、最近思うことかくしてひが者一葉の抵抗は、・・・〇菊坂町七十番地の井戸をあがったところに天啓顕真術会 久佐賀義孝久佐賀義孝の家は鐙坂(あぶみざか)にあった。菊坂に住んだときと時代が違うが、菊坂の家から直ぐ ...に記載されていた。http/www21.big.or.jp/~pcs/ent/omoukoto/2007_09/zakkan.htm  参照。では、コースに戻り一番目の家から二番目の家(一葉井戸の路地出入り口、角左)、お勝手が下道に向いていたのであろうか、『首夏水』(しゅかのみず)いささ川 きのふ(の)春のおもかげも かへらぬ水に かはづ鳴くなり(夏子M26年5月 そして、下道+東大下水支流の向うの上道側の情景を憂いている。では、あの菊坂の通り新道)にも関係している、伊勢屋質店(永瀬家)を尋ねてみ.ることにしましょう。

一葉井戸路地を、左に出て東大下水支流の流れに沿って歩くと「水無川理髪店」(旧・山崎理髪店)近くにスグ、三つの橋があります。一番手前が菊坂上道に繋がる橋でちょつと大きな橋です。

【菊坂橋】規模は小さいですが、手摺り欄干の付いた立派な橋でした。ここいらは上流からの合流地点でもある為、水量も有り、大雨など降ると子供の背丈位の深さがあったと古老からの聴取で判明した。菊坂橋の位置は最近まで、二つの候補場所があったようですが、正解はココ、明治の地図で見る番地、菊坂48番地です。(※詳しくは110周年忌記念配布地図参照)東大下水支流が直角に曲がり「菊水湯」の方に曲がるところへ、二つ目の橋が在り名前はまだ判らない、三つ目は菊水湯前にあった、菊水湯に入る為の橋であったそうだ。 菊坂橋を渡り階段を上がり上道の商人どもの菊坂上道に出るこの階段の左側は与謝野鉄幹が住んだ事がある親戚の家で。我輩も、新築の際仮住まいしたことがある。なんと昔は「おわい」置き場の時もありました。

【伊勢屋質店】さて、この上道を左に降りていくと新道の話しでも出て参りました「永瀬さん」のご厚意により残ることとなりました「伊勢屋質店」です。一葉が通った位置にそのままあります。特に年に一度ですが毎年◆建物応援団や文京の文化環境を活かす会等の主催により内部を、15:30迄に入場された方は拝見する事ができます。火災の時など扉を塗り込める土がいつでも捏ねられる様に準備されていたりと、・・・勉強になります。是非この機会にご覧ください。

伊勢屋質店玄関を出て二時の方向に菊坂の下道へ降りるところが在ります。(大昔はこの道が上道から下道に繋がる最後の道でした。)特徴は小さな4・5段の階段途中に「消火栓」がニョキっと飛び出ています、そして正面には公園が在ります。思うに、一葉は伊勢屋質店に行く時は、二つ目の橋を渡り菊水湯の釜側、大きなゴミ箱のある、旧・小林理髪店の前を通って真っ直ぐ進み、下道と上道を繋ぐ道を上がり、人目を避けて伊勢屋質店へ通ったのではないかと考えます。  

[姉の「久保木ふじ宅」]  下道に下りたら右に行き、突き当たりを右へ曲がると、先程の「菊坂」に戻ってしまいます。何気なく通り過ぎてしまうと分からないので二つ目の左に伸びている路地、角に大きな消火器BOXと町内の掲示板がある所。 手前を覗くと、立派な井戸が見えます。その先右側が姉の「久保木ふじ宅」へとなり、鐙坂で曲がった「東大下水支流」が流れ、大合流地点近くへと出ることになります。では戻って先に進み右に曲がると真正面に「菊坂」を挟んで「胸突き坂」が見えることと思います。 この坂が、元祖△キクザカ」です。、現在「胸突き坂」と呼ばれており,この坂の途中で寅さんの映画を撮影していたのを幼心に記憶します。  

【菊坂】◎「喜 福 寺の尻菊坂が〆くくり」・・・当時の川柳です。
※今の「落第横丁」の道は、『喜福壽寺』の昔「喜福寺門前」として、「喜福寺裏門前」もそうであったように栄えていました。 昔からこの道は大事な道であったわけです。きっと、岡崎本田藩に仕官していた、江戸の歌人「戸田茂睡」も、よく歩いた道であろうと思います。

国立国会図書館蔵の屋敷渡預絵図証文で、道造り屋敷を調査中【胸突き坂】位置に『菊坂』と標記されているのを発見しました。元禄10年7月21日付けで『本郷丸山片町道造り』の絵圖証文の写しです。   

()■『喜福寿寺』の御府内寺社備考−第五編 曹洞宗 127より

御覧のように喜福寺の絵図に「菊坂通」の記載があり、この正式名称『横丁』から『胸突坂』に通ずる道こそがやはり川柳にあった通り

「喜 福 寺の尻菊坂が〆くくり」で正解でした。

 

 【丸山福山町】

そして、白山通りに出て終焉の地「コナカ裏」の崖地辺りが丸山福山町の家が在った所であり。毎年多少手前の位置ではあるが『一葉忌』には、温かい気持ちが溢れんばかりに記念碑がお花で一杯になり、呈茶などされ一葉女史の功績が称えられている。普段も彼女を偲ぶファンが絶えない場所である。

 偲びつつ終焉の地を訪ねましょう。 菊坂の与太郎・・・つづく

■第四部「一葉さんこんにちは」今後の課題【菊坂篇】

・一葉井戸から、伊勢屋質店への道を、考察する。 済み

・伊勢屋質店内の見学をし、姉の久保木方秀太郎の家位置を確認。 済み 

・玉川一郎氏・金田一春彦氏・の情報による龍泉寺町に転居する前に、一葉一家が荒物・駄菓子店を菊坂下で営んでいたことがあると記載がある??。

※検証要。地域紙 K氏による談。 

・1893(M26)2/1下谷區龍泉寺町に転居、荒物・駄菓子屋を営む。

1896(M29)24歳「たけくらべ」を「文芸倶楽部」に発表

・11/23日肺結核にて没。

■今後の課題、文中にも書いたが一葉女史の菊坂下、もう一つ課題(謎)が残っている。玉川一郎先生と金田一春彦氏の本をお読みの方ならスグお分かりかと思いますが、菊坂下道で一葉一家が竜泉に引越しする前、生活の為に子供相手の駄菓子を売る店を商っていたという説である。一葉研究会等で、この疑問の話をすると、会合場所で苦笑されるのが、落ちであるが確かに、前記の二書には記録されているまた、玉川先生の文章を読むと、伊勢屋質店の店の様子などが描かれており描写というその点に関しては疑う余地が無い。しかし、一葉の菊坂下での子供相手の商売をしていた場所を表す文を読むとウンなんだ??・・と頭をひねってしまうところがある。また金田一春彦氏の文にも、菊坂下で一葉一家が竜泉に引越しする前、生活の為子供相手に駄菓子を売る店を商っていたという部分がある。 最近、廃刊となっているが注目している文化誌があり、その一つにこの噂についての記載があった。その文章ではどうやらウサギ屋を指しているようですが、一葉さんの日記にも手掛かりが無く、まだ時間が無くて、著者に確認を取っていない現状です。   H201120 本郷-菊坂の与太郎  梨木紫雲(梨木庵)にて 以下抜粋資料あり

 参考文献引用資料。

・御府内備考 雄山閣   ・新撰東京名所圖會         ・文京のあゆみ

・本郷小石川區道路台帳  ・加賀殿再訪・西秋良宏編     ・駒込のお富士さん

・「大正の子・本郷の子」玉川一郎著  ・「街を綴る」熊田氏著 ・雲荘随筆

・「十一面観世音菩薩えんき」・・・本郷薬師奉讃会  ・成瀬監督の『晩菊』        

・Kai-Wai 散策   ・各町内、古老の皆様よりの情報+資料等 ・ぶんきょうの歴史物語      

・道路工事監督の渡邊様                     ・今昔東京の坂P259

佐渡之守→佐渡守へH240823 校閲 K様 ありがとうございました。

◎紙面を借りて御協力、感謝致します。            最新更新H240827