■本郷の回覧板

昔空間散歩の薦め

本郷 菊坂の与太郎シリーズ

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『菊坂』

 本郷菊坂「起源と沿革」 H180925〜菊与

 舊加賀様のお屋敷も黄色い絨毯で被われ、心字池の畔には紅葉がちらほらと見られるようになりました。三日月も満月になるように時が満ち筆を執ることに致します。                       本郷-菊坂の与太郎

 ・「菊坂町」の由来は長禄年中、本郷邊町屋に相成り候頃

    

 

『菊坂物語』

仝義『△キクサカ』  『菊坂』 『菊坂』  『菊坂の通り』(新道)    

  さて元禄九(1696)年といえば、江戸大川に永代橋が掛かった年ですが、我が街『菊坂界隈』が町屋として開かれた年でもあります。ここで御存知の方も多い事とは存じ上げますが復習の意味で文政◆「江戸町細見」P122を紐解くことを、御容赦願い申し上げます。■使い方 「The菊坂」 画像↓ひたすらクリックすると元に戻ります。

  

☆地元古老協力による◎地域地図

 

更新中資料

「菊坂の通り」新道

/椋卅(玉川夫妻による略図) ★∪鐐(久我氏による地図) 

「菊坂」上道・土手中道

昭和  ゝ萄篦  ⊂赦遜蘿頃(鈴木さんによる角店界隈)

「菊坂」下道・土手下道

☆「菊坂橋」「菊水湯橋」位置判明 せ温融駑『東大下水支流』 

◆『菊坂』と◇「菊坂の通り」の違いについて   ※「菊坂」は、古地図を見る時代によって坂の位置表示が変化している。明治22年以前、本郷通りから菊坂に出るには附木店を通っていました。不通部分◎「新道」が明治22年3月に足されやっと全通したわけです。 其の部分の名称を「菊坂通り」(玉川一郎氏命名)又は新道と、呼んで区別していました。     今の菊坂で表すと本妙寺坂を境にし、現・中村そば店から田町までが「菊坂」になるようです。では、他の坂が△キクサカと言われていた頃ここは?      と云うと・・・。 元禄期

本郷丸山片町』と呼ばれており。この通りは「本妙寺」と「長泉寺」両寺院に繋がる通りでした。

◆『菊坂田町』と◇「本郷菊坂田町」

・・・さらに文京区史兇砲茲襪古地図の本妙寺と長泉寺間の雪崩地は、1854年嘉永7【菊坂田町】と呼ばれていた時期があり菊坂下から白山通り迄の「本郷菊坂田町」と載っていた。「復元 江戸情報地図」と混乱を招き易い名称です。 

◆「本郷丸山局見世」と

◇謎の「丸山通り?」の件

さらに『岡場所遊郭考』の絵図によると。本郷丸山局見世の切れる場所は菊坂下(丸山町・本郷田町)から云うと

「花明」そう(長泉寺門前の花屋さん)と「歯医者」さん。昔の「間瀬綿打直し」、言い換えれば、宮澤賢治の菊坂下宿先への降り口辺り迄でした。時代によって変化している可能性がありますが一時期このような配置になっていたようです。また古老の話ではここを「丸山通り」と呼んでいたとのことです。※ でも東京名所図絵に在るように、下道を丸山通と呼ぶ説もあり、現時点裏打ちが無いので便宜上(仮称扱いとしておきたいと思います。)

※参考資料■『法真寺』から本郷界隈を案内 【第30回 一葉忌記念版】              https://hktv.xyz/ichiyou-tera.html

追記 元禄期頃の「菊坂」地図写し、完成 H2105 元禄菊坂界隈の様子は、「菊坂の与太郎-元禄期を旅する。」で・・・     また明治期40年頃には、長泉寺の参道には、高い木が二本、門柱のようにそそり立っていました。

菊坂町會記念写真   提供:故・牧野町会長 (※新撰東京名所圖會P)それは 『長泉寺』HPに掲載しました、紀元2600年祭の「菊坂町会」祭りの写真です。 

8什澆痢惶萄筺 ・・・・・・・「菊坂」は昭和初年頃、「梨木坂」の下には巡査派出所『KIKUZAKA POLIS BOX』が存在していました。そして、昭和30年頃は狭いながらもまだ「相互通行」で、後に「一方通行」となって現代に至っています。 

●菊坂 「梨木坂」も「本妙寺坂」も「胸突き坂」も総て菊坂町に繋がっている坂は「菊坂」であり,まさに菊の花びらの様に菊坂町に繋がる坂は、どれもが「菊坂」と云っていいようです。

元祖「菊坂」敢えて限定する必要があるなら、古文書と古地図に従い渥美清主演「寅さん」を撮っていたあの「胸突坂」を★元祖「菊坂」と表記します。

あの坂の研究家「横関先生」が「府内備考」等から実証して下さった通り当てはまるからです。  特に「梨木坂」に庵を結んだ住人で『本郷が好き!!』 江戸の歌人、 『戸田茂睡』翁は、江戸の様々なことを教えてくれました。 与(H180702)

新資料! 元禄期【胸突坂】に★元祖『菊坂』の標記

★「新資料」、国立国会図書館蔵の屋敷渡預絵図証文で、道造り屋敷を調査中【胸突き坂】位置に『菊坂』と標記されているのを発見しました。これは元禄10年7月21日『本郷丸山片町道造り』絵圖証文として記録された物。

 「菊坂町」の由来は長禄年中、と云われて本郷邊町屋に相成り候頃、正保以前、寛永五子年(文政図)の菊坂界隈は御中間方大縄拝領地でした。町名由来の菊は長禄頃(府内備考P124)から作られていました。付近一帯、花畑であったとの記載もあり。菊の種類は判明しておりませんがここは南側だけの片側町で当時(元禄期)正式には【本郷丸山片町】と云いました。

「菊坂町」という、三角錐のような地域で元祖「△キクサカ」/現・「胸突坂」をその一辺として相対する一辺を「梨木坂」とすると、その間に挟まれた地帯を云う。臺町辺りとなる、その北の方を里俗は【奥山】と云い、この北側の菊坂は、崖状態になっていたので冬季になるとよく雪崩が発生した。東は『長泉寺』・『本妙寺』である。西は【菊坂田町】、南には東大下水支流が流れる「本妙寺谷」を挟んで、本妙寺坂に至る。

【東大下水支流】大昔より、現・東大となっている「加賀藩前田邸内」より流れ出る湧水は、太田道灌の領地の境とも言い伝えられ、太田治世の頃は、現・本郷通りを横断していた為、小橋が架せられていた。そう有名な「別れの橋」である。ここで江戸を離れる旅人を見送ったからとか、享保年間以降あまりにも有名になった本郷三丁目の老舗「か祢やす」までは江戸の内という川柳が拍車を掛けたせいか、江戸の境とされてしまったが実は違っている。 黒赤の朱線引き範囲を確認すると良く分かる。

【別れの橋】と江戸を離れる人を、大昔からありながら戦後、世田谷に退転してしまった「真光寺」前を下る坂を「見送り坂」といい、道を横切る「東大下水支流」を境に、上る坂を「見返り坂」と称した。但し、先程の富元山 瑞泉院 「真光寺」は、大昔一時廃寺状態となった、実はここにて罪人を裁き、許された者は江戸処払いとなった者が、当時一度旅立つと、二度と戻れぬ事が多く、今生の別れをした。別れの橋を渡り、江戸に残る家族が見送る坂「見送り坂」側を、何人の者が後ろ髪の惹かれる思いで、見返ったことだろう、それを見送る年老いた母や家族とそこで「別れた橋」だからである。

また、良くご存知の通り、徳川治世になると大楠のある「弓町」では御弓組が配置され、江戸城の鬼門にあたる方向に時を定めて。弓を放たせたが、天海の進言により、不祥事のあった「浅草寺」を諦め、江戸の鬼門を守る為、東叡山「寛永寺」を造営する事を決め、そこに「上野忍ヶ岡」の領地を、提供したのが津藩の「藤堂高虎」ですが、「真光寺」を廃寺から再び盛んにした人物でもある。

その経緯は、真光寺と『本郷薬師』で・・・

https://hktv.xyz/119HTML/formu100.html

★【丸山】この【菊坂町・菊坂田町・菊坂臺町・菊坂丸山田町・小石川片町、丸山新町】を含め里俗【丸山】と云う「府内備考」1826年(文政9)に記載があります。

そして町屋が許され、元禄九年に町方支配となったと在ります。 さて、その菊坂町はと云いますと急激に開かれて行く今で言う新興住宅地、町屋故に住む人も急激に増え、生活に必要な上下水も、周囲の道も当然必要となり、以後利便性を考え、次々と生活環境が整備されて行く事にあいなります。

◆菊坂の「菊」について

今年【《祝》20周年】を迎え「それたば・どにたば」の動画配信が始まった。大好きな地元のケーブルTV ◎【TCN東京ケーブルネットワークてれびインフォメ(文京) 現パーソナリティ・人気者!!たばちゃんのページ♪ 「それ行け!たばちゃん」「ど・にちのたばちゃん」の取材メモ!コメント欄に一時掲載した文をリクエストに答えて載せておきます。※江戸期に菊坂で栽培していたのは何菊  湯島の菊祭り放送も、さっき見せて頂きました与。初日の「菊祭りの舞」始めて見ることが出来ました。ありがとう。しかしたばちゃんも疑問に思っている、江戸期に栽培していたのは何菊だったんでしょうネ?。貼ろウィンで、最後にお菓子を下さった紳士S氏が、特に江戸の初期に菊坂で栽培されていた種類を以前から追求しておられます。小生も長禄期から元禄期辺りの本郷で栽培されていた菊の種類に興味があります。昨日、ガマン出来ずに湯島へ行って来ましたが、関係者に質問してもやはり、まともに答えて貰えませんでした与。各地の殿様の保護奨励で江戸中期頃から盛んになった古典菊、そして厚物等は、江戸中期・後期と聞いております。奈良時代に薬草として中国から伝搬された菊がどうして、武州豊島郡狭間田領本郷村字菊坂にどのようにして伝わったのか、与太郎なんかは、奈良と言う事から『行基』が関係しているんじゃないのかなんて妄想したりして、マッ・中菊か香りの強い小菊ではないかとの話もありますしその種類は果たして・・・というところでござんす。判明したら教えてね。たばちゃん。PS・そうそう我らが誇り「文京ふるさと歴史館」の学芸員「平野恵」先生が講師として、平成19年11月24日(土)13:30〜■くらしの植物苑特別企画 伝統の古典菊の会場 国立歴史民俗博物館において「江戸の菊」と題し話されるとか。先生は先日の「八犬伝で発見 江戸庶民の生活文化」の催し物を企画された先生で馬琴の文中に出て来る菊文化にも造詣が深い先生です。https://www.rekihaku.ac.jp/events/o071030.htmlでは、失礼します。     長くなりましたゴメン(与) 本郷 菊坂の与太郎                               [WEB] (2007/11/06 2:24:42)

■菊坂の与太郎 資料室から

◆菊坂界隈の里俗

【町名分類】 (※使用に当ってはその時代による変遷。町名変更等を考慮されたし)    里族名称について、既記載申し上げましたが「菊坂」は、坂と理解されがちですが、そう解釈すると誤解を招くことでしょう。

◎菊坂は丸山より小石川へ出るの坂なり、この處はむかし菊を作りし畑のありしゆへ坂の名とす・・・【南向茶話】備考P77と有名な一節から起こっているものである。

それは実際「菊坂」と云う名の坂がある為です。そこで今まであいまいとされておりました地名、与太郎なりに少し整理させて戴ければと思います。

まず「菊坂界隈」は全て【丸山】に所属し、細分化里族名称にすると元来の場所が見えて来るようです。つまり「菊坂」は一つの【地帯・町】を指します。

★『鎌倉大草紙』などに見える豊島左衛門尉平信盛の一族には、練馬・平塚・丸塚氏があり、平塚は駒込と西ヶ原の間にある平塚明神の付近。丸塚(円塚)は、今の本郷丸山であろうという(『兎園小説外集』) ★いずれにしても、吉祥寺橋近くにあった「「本妙寺」や「長泉寺」」が本郷丸山に越して来る前や阿部氏が下屋敷を拝領した頃の丸山は、そうした中世武士の居館の跡をとどめた百姓地であったろうと云われています。

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↑上記「寛永時代」そして            ↓「正保期」の古図では、

一貫して《瀧 又助》なる者の名前が見られ菊坂と、菊坂△△と名の付く地域を、ほとんど拝領していたようだ。 これがよく深緑色の古いタイプの案内板に説明がある、御中間方で《「瀧 又助」組なる名が周辺に多く見られる。》

 ※1680年頃(延宝七〜八)年頃には、「黒柳助九郎」組の名が多く見られるように なりその当時の拝領地変遷が伺われます。

※最近の口伝及び、聴き取り調査の結果、判明したのは江戸も後期になり明治大正期になると、菊坂の土地を多く所有していた人物の名に「岩下」という大地主の名が浮上してきた、解っている範囲記録して置くが、祭りなどでも若い衆をよく纏め面倒を見ていた岩下元町会長、そして佐藤家の先祖にあたる方と判明。その方は大正年代に歿した「岩下きむ」さんという人物で98歳生涯独身を貫いた女性であったと聞く。(H220703聴取)

「菊坂」は、ほぼ三角にて江戸期隠士歌人の「戸田茂睡翁」が住まいし現「梨木坂」と、現「胸突き坂」の辺に挟まれ、その底辺は現「菊坂通り」が該当する。 △キクサカに続く東への道の左(北側)は、菊坂臺町の一部に続いて本郷六丁目の一部があり『達磨通り』(落第横丁)を通り、北木戸のある本郷通りに至る、北木戸は「現本郷郵便局」の角辺りで、ほぼ正門前には「岡崎藩(本多家)の★裏門」が位置していた。このことから判明するように菊坂区域の北側には、「岡崎藩(本多家)」があった。その土地、以前は「黒田勘解由」が所有。さらに昔は「矢代越中同心」が駐屯していたことがあったようです。 

△八百屋お七△菊坂町地域の頂点に戻り、右(南側)「梨木坂」坂入口をかすめ、鳳明館別館辺りには大昔盗賊奉行「中山(カゲユ)勘解由の組屋敷」があり、(耳袋)や森川追分前又は、駒込追分町の「願行寺」前本郷の寺院P107)に住んでいた八百屋「お七」に対し『お七は十五であろうがな』と、そのロマンスに同情した上司「老中土井(オオイノカミ)大炊頭」と図って妙に語尾に力を入れて訊ねたのが、この方だったとか・・(挿雲)

△謎の地下通路△その近くには大名屋敷より大名下屋敷に通じる謎の大地下通路があったと囁かれている。? それは「吉澤酒店」を越し、謎の地下通路が見つかった「山後家」の建て直し現場でポッカリ空いた大通路を埋め戻すため盛土をトラックで四五台分要したそうだ。山後家を経て、落第横丁なる喜福寿寺門前脇通りにまで至っていたという口伝が残っている。

【菊坂町】と「天栄寺」 

 菊坂臺町は1627(寛永4)年、幕府は中間方三組に大縄地として与えられた場所で。寛永大江戸絵図では、やはり「瀧又助組」がその名を載せている。「同心」や「与力」がその名を連ねている特徴を持つ。またここ菊坂臺町は、天和三年、僧天輪(大阪の陣で武功のあった俗名「多門 主善重吉」が、戦いで亡くなった部下の慰霊の為) 寺を開山した場所でもある。

当初は「天栄寺」と書く寺浄土宗 京都知恩院末(法眞寺と同じ)で、開基した。 後、駒込のやっちゃ場(青物市場)発祥の地跡、向丘ケ丘に移り天榮寺」となる寺が、萬治三年まであったようだ。その場所はまだ、判明していないが絵図からすると「喜福寿寺裏」と「本妙寺」の裏辺りかもしれない。また正保年代には「中山勘解由組屋敷」南側には「長泉寺」そして「本妙寺」があり、それぞれその崖下には二分された▲【菊坂田町】が存在していた。

1696(元禄9)年町屋が開かれ。後、明治5年菊坂を取り「臺町」となったと云う。

▲両寺崖下【菊坂田町】昔、菊を栽培していた。北側崖上には「長泉寺」・「本妙寺」があり、夫々の崖下に存在した南側面は菊坂に面していた。

当時の景観は、丸山本妙寺谷に流るる「東大下水支流」の不求の橋を渡り、南に本妙寺坂が位置していた。北側の菊坂は崖になっていたので、冬季になると雪崩が多い所であった。

【菊坂町】は、さらに分類される・・・【菊坂町臺町の一部【奥山】である。

-A 【奥山】その北側、三角の頂点辺りを「奥山」と呼び、大昔は山の様相を示していたと云う伝えもある。それ故「丸山古墳」の候補地の一つでもある。

-B 【胸突き坂】文京区だけでも幾つかあるがここの坂こそが「元祖△キクサカ」と呼ばれるに相応しい。戸田茂睡「紫の一本(ヒトモト)」にはその坂の位置・「府内備考」ではその規模等・横関英一著「江戸の坂・東京の坂」ではその裏づけが記載されているので参照されたい。

-C 【梨木坂】(梨の木坂/梨坂/那須坂/なし坂)との記載あり。現「菊坂」より台町に登る坂を云う。東大下水支流が流れる「本妙寺谷」から坂を本妙寺方向へ上り、2/3程登った途中「本妙寺」総門辺りより稲荷脇を通り「長泉寺」門前を抜けこの梨木坂に抜ける「抜け道」が明治43年崩壊する迄の地図に残っている。※「幻の抜け道」 梨子坂には、戸田茂睡翁の梨の大木が植わっている住まいがあった。

森鴎外の「伊澤欄軒」に注目。

・坂上には「左」現・天理教の場所に旧・帝大YMCAの「臺町会館」がありその地は売られ『木下順二』氏の生家になり。のち河野家の所有となり終戦を迎える、当時、「梨木坂」坂辺りも空襲による被害があり、河野さんのおばあさんに聞いた話では、「梨木坂」を上がってくると周りは小さな畑が散らばって存在し、そこに電柱が寂しそうに焼け残っていたそうだ。空襲は「長泉寺」門が焼け残り止まったと聞いていたが、臺町もやはり被害があったようである。 その後、料亭「関雲亭」から「茶道倶楽部」となり道路向かいに移動したその跡が、現・天理教となる。道路を挟んで移動した茶道倶楽部は、渋澤栄一の流れを引く、「東京茶道クラブ」が昭和期には存在していた。 

・梨木坂下の右三角地には永いこと赤い一号ポストが存在し、その15m上辺りに何段かの階段があり「棟梁」が住んでいたそうだ。そう云えば亡くなられた時大勢の鳶に送られる姿と、生前を讃えるかのような「木遣り」を聴いた記憶がある。

  【丸山田町】・・・丸山田町はまだ、「言問い通り」などが無かった頃に存在していた町の名である。古くは(1627)寛永四年、元和年間に開山の臨済宗福寿山   『大林寺』が下谷の地よりここ本郷丸山田町に移転、座禅道場を於いたが1653(承応二)年幕府の御用地となり上地され、小石川の白山前に退転していった。(現在は曹洞宗として、向丘二丁目にある。) 以前、地下鉄工事の折言問い通り部分「菊坂下遺跡」として埋葬遺骨が多数見つかったが、同じ菊坂下の▲三角地帯工事の折その続き地として関連有ると思われる埋葬遺骨が旅館案内所やバス停近くで纏まって出土している。さて「現・菊坂下」に降りていくと、Tの字交差点手前、▲三角地帯旧(丸木洋服店や金寿司、魚屋、旅館組合菊坂下案内所を含む地帯(売り出し中の螢織ギプランニングオフィス)がその位置である、そこと言問い通りを挟んだ旧野尻米店位置にはとても美味しい良心的なパンを焼いておる。(菊坂の与太郎御推薦★食パン『アトリエ・ド・マヌビッシュ』前日要予約03-5804-4242 10:00-19:00 火曜定休のお店がある。お試しアレち、なみに宣伝費等は一切貰っていない。)を含め、そのさらに阿部の殿様寄りの現裏道迄と、石川啄木が金田一京助の「菊富士楼」隣昔の「長泉寺」敷地内の「赤心館」(本郷区菊坂町)より移り現「大栄館」の別館辺り「蓋平館別荘」はS29年火事にて消失(本郷区森川町)脇の『新坂』(昴坂)で、これは岡崎藩(本多家)の【映世神社】脇を通って降りる急な坂を下り切ったほぼ延長線上の道路反対側の阿部様屋敷寄り裏通り入口迄の場所であった。そして大火として有名なのが、「明暦の大火」と明和九年の「目黒行人坂の火事」ですが、この目黒の火事の同日、午後六時頃ココ、「本郷丸山田町」からも出火し、さらに火災の被害を大きくしたそうだ。この二つの火事が消えたのは翌日の午後二時過ぎだったという。この入口の右角に、先程申し上げた、『新坂』途中に住む方の旧本宅があり、親戚筋である日本画家の手により明治大正期の本家の記録として、言問い通りを含む大下水(暗渠化前)の様子を含む、御屋敷の様子が描かれている掛軸が残っている。以前「お宝鑑定団」に披露されたような記憶が有る。 また御親戚が現在も住まわれているとの事である。その後、明治23年より「谷」や「新開」「橋下」を、約十年かけて開拓した。一葉が囃し立てられた武田五一の『空橋』こと「清水橋」の下には橋脚に明治39年9月成と記されており其れ迄の間に「言問い通り」として整備され「菊坂下」の「丸山田町」を分断して道が開通した、「田町の古老」杉原書店さんと菊坂町会長の「太田泰」氏の話によると、昭和11年太田氏の生まれた年に道が拡張されたとの情報を頂いた。

また、木下順二氏「本郷」P190に、当時森川町31番地の棚沢書店本店が、道路新設で強制的に立ち退きに会ったのは(1941年)と記載がある。特に田町の古老の話では、現・言問い通りの中央分離帯の線位置まで田町側であり、拡張によって老舗「三浦酒店」さんなどは、阿部様寄りに家屋を曳いたとのことである。

【本郷菊坂田町】・・・旧・田町 三浦屋酒店右角から、◆崟从筺彳口迄と、言問い通りを挟み、その両サイドも昔は「菊坂田町」でした。さて、ついでに申し上げますと丸山田町を含む菊坂田町には、阿部様の馬場がその右奥にある「表門」で、菊坂下の延長線上、つまり「言問い通り」を突切り「三浦酒店」右脇通り奥に至る,●「車馬専用・表入口」と『本郷古図』にはあります。そこから白山通り寄り「石坂」が「裏門」とあります。 西公と深い係わりのある現「興善寺」そして今は無くなってしまった「文京東映」辺りには「大善寺」がありました、その角を曲がると、◆崟从筺廚瞭口が今も残っております。

里俗丸山は「丸山新町」を含め樋口一葉女子終焉の地「丸山福山町」を含めとてもとても大きかったようです。1628(寛永5)年御中間方拝領地となり、「府内備考」の記載に元禄九年に町屋が許され、町方支配となったとあり。 明治2年に小石川片町、丸山田町を併せた。明治5年に寺地・武家地片町(川勝前)を併せ「本郷菊坂田町」の「菊坂」を取り、「本郷田町」とした、そして明治44年『田町』となり、昭和44年迄ここらは『田町』と呼ばれた。

一葉が通った伊勢質店の永瀬氏の記録によると「田町」でコレラが発生し、菊坂町會と田町の衛生組合が一緒に活動しその対処に当たったという記録が残っています。(※前掲載「菊坂の変遷」右側明治33年「出納簿」がそれに当る。-----------------------------------------

寛永時代の「菊坂」・・・・・ 寛永江戸全図に見る菊坂所有者・寛永20年(1642-3)

正保年代の「菊坂」・・・・・ 正保江戸図に見る△キクザカ通り正保元年(1644)

:元禄時代の「菊坂」・・・・ 絵図証文から見る△キクザカ通り・元禄10年(1697)

等高線推測の水路跡・・ <案>川(東大下水支流)の流れ 本郷-菊坂の与太郎

明治22年迄の菊坂・・・ 「附木店」+菊坂

大正の菊坂通・・・・・・・ 菊坂の通り「新道」+菊坂

昭和初年頃の菊坂の通り・・菊坂通

昭和29年封切「晩菊」にみる・・菊坂通

 昭和の菊坂通 林 順信著「東京路上細見」1巻にみる- △キクザカの位置

作家「立松和平の街道を行く」(NHK編)に見る菊坂界隈- 菊富士ホテルの位置

平成の菊坂通 記録中 

 『戸田茂睡と菊坂(△キクサカ) ◎「本郷が好き」の一人、『戸田茂睡』翁の残してくれた「紫の一本」は、とても価値がある。「梨木坂」等の記載を含め、天和二年頃の各、「坂」の言い伝えと、その当時の記述により不明だった点を解明する時の貴重な表現である。当時、戸田茂睡翁は54歳。もう高家血筋の母を亡くし、岡崎藩(本多家)をすでに致仕し、隠遁生活に入っていた。 そして当時の住まいは浅草の田原町二丁目辺りに住まいしていたのだ。 横関英一先生が教えて下さったように。記述は信頼できる物と思っている、

当時の△キクサカと呼ばれていた物が、現在の「胸突き坂」と菊坂の与太郎も考えて来たが★国立国会図書館蔵の屋敷渡預絵図証文を調べていたら、現『胸突き坂』位置にくっきりと『菊坂』と表記され坂の名が存在していた。

これは元禄10年7月21日『本郷丸山片町道造り』の絵圖証文として記録された物である。

 ◎「喜 福 寺の尻菊坂が〆くくり」・・・当時の川柳には、そうあった

※今の「落第横丁」の道は、『喜福壽寺』の昔「喜福寺門前」として、「喜福寺裏門前」もそうであったように栄えていった。 昔からこの道は旧・菊坂「胸突き坂」にも通じている大事な道であった。その為か、以後「落第横丁」の本郷通りには「北大木戸」が出来た。

・[紫の一本]・・・菊坂、小石川より本郷六丁目へ出る所の坂を云、・・その△キサザカ頂上を背に南に歩く。「梨木坂」茂睡の庵前を通り降りるとそこには現在の菊坂通りへと出る。そのことから思い出して欲しいあの一節を 梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故、坂の名とす」と『改撰江戸志』。また『南向茶話』には「戸田茂睡(『紫の一本』の著者、(1629〜1706) という名高い人の庵がこの坂のあたりにあって、その前に大きな山梨の木が一本立っていたので梨木坂といった」と記載がある。 

 戸田茂睡『本郷』も好きだが『梨』も好きなようである。浅草に住まいしたる頃も、わざわざ梨の木を植えたようである。また余談ではあるが●森鴎外の『伊沢蘭軒』文中にもこのような一文が載っている、「昔元禄中、隠士戸田茂睡、老居此地、園植梨数十株、今有梨坂」などとある・・・。

 [紫の一本]・・なしの木坂本明寺の前の谷へつきて小石川へ下る右の方の坂を云、此坂より菊坂へも出る、此あたりは昔同心屋敷なり ・・である。言い換えると、梨木坂は 旧・キクザカの「胸突き坂」より 丸山通りなりなのでは無いのでしょうか。すると、古老の口伝にも合致して参るようです。

「菊坂通り」下道・土手下道    

◎其の一つがナダレ地の造成利用です。 其の頃、東大下水支流に沿って本妙寺谷下道に降りて行く処、現在の角(カド)店(旧柴田商店)辺りがそうです。大昔水位が上がっていた頃は、入り江でした。Kaiwai散策のmasaさんのブログを見ていただくと一層実感していただけることと、思います。では、この坂を下っていく事に致しましょう。  

本妙寺坂のある谷戸  

https://mods.mods.jp/blog/archives/000733.html 

往古、下道に下りて行く坂の右側は江戸時代ナダレ地の為(ナダレ・明き地・明地・空地)表示があります。

■『本郷 菊坂 道造屋敷』 

菊坂町内の「仁兵衛」他15名が当時の道奉行「武島次郎左衛門」と「伊勢平八郎」にナダレ地の造成利用を申請し、翌年工事を俊成した。その結果 雪崩地延長205間・奥行3〜4間半という長〜い長屋が完成致します。 ・元禄11年(1698)8月 永代橋の往来が出来るようになった年〜元文五(1740)頃迄町方支配とされ『本郷菊坂道造屋敷』と唱え、 先の16名で所有されていました、ところがです・・・。

◆『本郷 菊坂 上納屋敷』  

ここで注目!・寛保年間(1741頃)故ありて公収され競売される。

結果:當町「安右衛門」「権左衛門」と決まり上納請負が命ぜられるた。『本郷菊坂道造屋敷』から『菊坂上納屋敷』と云われるようになった。つまり「東大下水支流」の項で書いた「本郷丸山局見世長屋」が出来るわけです。…※別資料あり。 寛保年間故有り公収せられ、延享元年入札に付し、當町の人「安右衛門」、「権左右衛門」に上納請負を命ぜられ、菊坂上納屋敷と唱えしに、其の後「隠賣女」の検索度々あり、・寛政11年(1799)11月18日市家を徹し武士地と為し、遂に旗本及び小役人の拝領地となれりと。(別本では8日と記載) (※新撰東京名所圖會P83下)

●江戸町鑑(天保)に見る、

・寛政11年(1799)11月8日(別項では18日記載)小田切土佐守様御掛りにて、町屋取拂當時武家地になると記載あり往時名主の名前に吉野喜兵衛の名がある。※明治ニ年、道造屋敷の残地及び本郷四丁目、五丁目の代地を併せ、また傍近の土地を合して其の町域を拡張せりとある。                                               (※新撰東京名所圖會P88〜89)

 

◆ 昭和12年から戦中の菊坂(「梨木坂下」辺り)

右写真昭和12年の菊坂 「梨木坂」下界隈の風景、右手前「菊坂交番」の前は桐の木があった。左写真「出征兵士」壮行会の様。この後一行は櫻木神社へ向かい、武運長久と帰還を願った。

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■典拠資料

■新撰「東京名所圖會」 ■文政「江戸町細見」 ■「本郷古図」

Kai-Wai 散策 のmasaさんのブログ

 (図版追加)2005年12月08日     「本妙寺坂のある谷戸」

■「文京区史」 二版 近世 

■『戸田家系図并ニ高名物語』に見る人間茂睡    − 戸田正彦 

           青山学院大学文学部 日本文学科青山語文論文

■「戸田茂睡という人」         待乳山 本龍院 著 横田真精

■「戸田茂睡歌碑再建の栞」    万年山 東陽寺 著 西垣頴子

■『御当代記』戸田茂睡著」     塚本学校注    発行 平凡社

■「燕石十種」       ■本郷古図を探る!…菊坂の与太郎資料

(東大下水支流・本妙寺谷界隈) 「上納屋敷」本郷丸山局見せ長屋篇 

■特に※文京ふるさと歴史館 ※真砂図書館の優れた司書の方々、

■町内古老・他町会の皆様の御協力に感謝致します。 菊坂の与太郎

●『菊坂物語』について HKTV 「菊坂」の昔を紹介。昨年(H19年)菊坂町会の依頼で制作した非売品作品 DVD『櫻木神社大祭』 菅公1105年祭の記録より抜粋致しましたものです。 大好きな日本昔話風にしてみました。OP絵コンテ(^^;お借りしました。m(__)m

■所有書籍及び借用典拠一覧 ・加賀殿再訪 ・佐倉歴博古典菊展HP ・屋敷渡預絵図証文(国立国会図書館蔵)・江戸雀 ・新撰東京名所圖會・他・・より (梨木紫雲) 梨木庵

−−−−−−−■「本郷古図を探る!!」−−−−−−−

             <菊坂の与太郎資料>より H180928〜

○長 泉 寺 1636(寛永13)年丙子 類火ミ◎水戸藩「後楽屋敷」関連

○本 妙 寺 1636(寛永13)年丙子 類火ミ(東京史29-467)◎水戸藩「後楽屋敷」関連

・本郷丸山本妙寺へ移動している。

・本郷丸山本妙寺付近から明暦3年(1657年)1月18日昼過ぎ出火

○法 真 寺 和順山、歡喜院・浄土宗 京都知恩院末 奥駐車場に古墓石壁使用有。

○永 福 寺 1664(寛文四)年辰〜1717(享保ニ)丙申迄

・後、明治の地図にも「永福寺」名、記載有り。謎注意

◎喜 福 寺 1591(天正19)年以前より記録有、家康入府以前より存在していた、詳しくは不明。※喜福寺門前、喜福寺裏門前は別の項に記載。

★気になった特徴★

・補修後の重ね書き・小笠原佐渡之屋敷敷地面積及び附木店( 「樋口一葉」が、通った「吉川学校」(『吉田金魚』金魚坂)近くの向かい側を云う、附木店は、一時期「稲葉 鑛(こう)」の居住場所があった、そこは大昔の「藤むら」があった位置のようである。)

・道路位置の相違 ・虫食い補修跡 ・明らかになった、当時の橋の位置

・「不求橋」位置が判明か?  ・他の橋の位置

・道造屋敷表記 1698(元禄11)年 町方支配、本郷菊坂道造屋敷

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◆本多中務大輔屋敷下屋敷(中屋敷の記載?)  ※1670(寛文10)年庚戌 本多正勝の時「黒田勘解由」ヨリ2萬3.200坪4.500両にて買求メ、世々傳セリ。(大邸記、本多中務大輔下屋敷森川宿坪数弐萬3.173坪表記) 東京市史稿 岡崎藩P470

◎◆小笠原 佐渡守屋敷 / ×◆松平加賀守屋敷

◆近藤守屋敷

◆本郷丸山阿部屋敷 ※1610(慶長15)年武蔵鳩谷領主であった阿部正次は、本郷丸山に下屋敷を拝領した。

★貞享年間につくられた『丸山由緒記』によれば、湯島郷のうちの本郷に、丸子氏という中世武士の居館があり、元亀年間までその子孫が住んでいたという、『丸山由緒記』巻一、452頁参照 

★丸山は丸塚の訛りとする説あり。

★『鎌倉大草紙』などに見える豊島左衛門尉平信盛の一族には、練馬・平塚・丸塚氏があり、平塚は駒込と西ヶ原の間にある平塚明神の付近。丸塚(円塚)は、今の本郷丸山であろうという(『兎園小説外集』) ★いずれにしても、阿部氏が下屋敷を拝領した頃の丸山は、そうした中世武士の居館の跡をとどめた百姓地であったろう。

◆典拠先:文京区史 二巻・近世P53より

∋院では・・・

○吉祥寺が、既に吉祥寺橋(現水道橋)脇より移動している。明暦の大火以後類火による移動。矢田層雲によると吉祥寺橋は、元禄10年頃迄の呼称だったとか・・

◎喜福寺 ※喜福寺門前は、1591(天正19)年に本郷辺の代官沢四郎右衛門の取次で拝領地となる。(御府内備考では天明19とある。×)

・1605(慶長十)年より門前家作を造り代官支配領となった(「文政町方書」)

※文京区史 喜福寺裏門前       3-109
           喜福寺門前        2-48,2-806,2-859,3-108
          喜福寺 
古峰山  禅宗祥雲寺末16番地、

○本妙寺 1636(寛永13)年丙子、小石川より本郷丸山に移る。

     当寺は、1571(元亀ニ)年駿河の国より。P90

 ※https://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/shoukai/jiinnshoukai.html より

1590(天正18)年家康公が関東奉行として江戸入城に際して、当山も久世家、大久保家等と共に江戸へ移転した。当初は江戸城清水御門内の礫川町へ移建されたが、城域拡張に伴い飯田町、牛込御門内、小石川(今の後楽園)へと移動させられている。

二代目以降の住職もまた学徳高く前記久世、大久保、阿部等幕臣の帰依を得てその外護により伽藍も整備されたが、1636(寛永13)年類火の為全焼した。

その後、久世大和守広之の尽力により本郷丸山に替地をうけ、約6000坪の境内に九間四面の本堂や千仏堂、客殿、書院、庫裡、鐘楼、山門等完備し、塔頭寺院も十二と七堂伽藍の整った大寺院として復興した。しかるに僅か数年後の1657(明暦三)年正月十八日<明暦の大火によって悉く焼失した。しかし、大火から3年後に、客殿、庫裏を、6年後には本堂を復興。

 [紫の一本]には丸山界隈の事を・・・丸山、本郷追分より左に小石川の東也、せうれつの日蓮宗本明寺といふ有、本明寺谷に浪人又は引籠者住居す、京の嵯峨とは各別のちがひにて、きれいにもなく人もみな賤し、 ・・とある。

・明治43年(1910)巣鴨へ移転するまで本郷丸山にあった。

・現在も文京区本郷4丁目付近に『本妙寺坂』なる地名が残る。

○長泉寺 寛永13年(1636)小石川金杉より本郷丸山に移とある。

・祥雲寺末開基は永禄三年(1560) P99

・水戸藩後楽屋敷関連か「水戸光圀」が、三度来訪している。

・鴎外の「伊澤欄軒」 「渋江抽斎」にも注目されたい。

○法真寺 1596(慶長元)年知恩院より寺号附与、浄土宗「和順山」開山は不明。

  「腰衣観音」も現存。明治の文人「樋口一葉」女史ゆかりの寺である。

 本郷通りより法真寺に向かい左手前隣(現在駐車場)に明治九年、引越して来た

   樋口家は10歳までの5年間ここ「桜木の宿」で幸せな、一時を過ごした。

 法 真 寺のHPによると※https://www.hoshinji.jp/ ここ法真寺は徳川家康公の御台所「天野図書」が、同家の下屋敷を寄進(法真寺殿歓譽西喜大禅定門 寛永十年五月二十日寂)、寺の開基。 天保九年一月十六日に類焼、本堂は天保十年4月二十九日建てたものだそうです。

○永福寺 寛文四年辰(1664)大火に遭い小石川白山より喜福寺

     境内へ移る〜

     元禄五年(1692)壬申10月03日了意元禄4(1691)

     年卒後〜享保ニ丙申(1717)また大火に遭う。

     東本願寺末

     ★明治期同地に再び永福寺名を認む。(三層重ね地図)

     (府備続編巻之146・巻之147 修験280 寿林寺・永福寺より抜粋)

 ○喜福寺  天正19年、詳しくは別の項で。

C録浹載方法

・「炭団坂」の記載あり。関連御富代記元禄10年・宝永元年以降

・「本郷」又は「本々」記載の件(熊田氏)

 ※「本々」記載は尾張屋版絵図万延(1860/61)頃に良く見られた。

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・現在本妙寺坂と春日通の角地、ファイャーハウスの入っているサンファミリー本郷と ライオンズマンション本郷・ダイヤパレス真砂辺りには春日通りが拡張する前「真砂湯」小川真由美ちゃんの家がここにあり。丸山へ方向へ、上れば(本妙寺坂方向/北)真砂湯・真砂裁縫学校・真砂小学校となっていた。 ※別写真資料

・嘉永二年酉(1849)地図には※余語良琢屋敷(よごりょうたくやしき) とある元々寄合い医師余語古庵の屋敷で後古庵(コアン)屋敷と呼んだとある。 ※別古地図資料

●東京名所図会 【余語古庵屋敷】

これは寄合医師余語古庵の先祖、寶永元年7月27日幕府より賜った物、坪数は426坪三勺ニ才。其の半ばを住地とし、其の半ばを町屋敷とす。

同年11月15日町奉行の支配に属し、其の時より「本郷古庵屋敷」と唱う。

     新撰東京名所圖會四八編P83明治四〇年発行に記載がある。

●東京市史稿 15巻-671 【余語元善】寶永元年7/27

 本郷御弓町 余語古庵 元善屋敷 坪数五百坪。

 同文中に。「余語古庵内 新谷佐五右衛門 印」とある。

※下、鴎外の『伊沢蘭軒』により、世襲二代目と思慮される。

●森鴎外『伊沢蘭軒』【余語良仙】

・余語氏は世古庵の号を襲いだものである、古庵一に觚庵も作ったか.

 当時武鑑には「五百石、奥詰御医帥、余語良仙、本郷弓町」記載有

 余語良仙、本郷弓町、奥詰御医帥

 首夏与余語天錫

 与余語天錫

 上巳与余語觚庵犬冢吉人

 ・余語氏の塋域

 駒込竜光寺に余語氏の塋域のあることを報じてくれた。

1695  第一「法眼古庵余語先生墓、元禄八乙亥年三月十九日卒、孝子元善建」

1735  第二「現寿堂法眼瑞善先生余語君墓、享保二十年七月十五日卒七十二」

1778  第三「天寧斎余語古庵先生墓、安永七年八月二十二日卒、七十歳」

1814  第四「拙存斎余吾良仙瑞成先生墓、文化11年四月四日卒去、六十二歳」

1848  第五「蔵修斎前侍医瑞典法眼余語君墓、嘉永元戊申四月十日」

                            の五墓を見たとある。

◆引用 そして天錫は或は瑞典かと云つてゐる。弟の書には竜光寺境内の図があって、余語の塋域は群墓の中央にある。わたくしの曾て訪うた安井息軒の冢子(チヨウシ)朝隆(テウリウ)と其妻との墓の辺である。

程近い寺だから、直に往つて観た。余語氏の諸墓は果して安井夫妻の墓の隣にあつた。しかし今存してゐるものは第四第五の二石のみで、

第四には「拙存斎余吾良仙瑞成先生墓」と題してある。第一第二第三の三石は既に除き去られたのであらう。天錫の事は姑(しばら)く弟の説に従つて置く。  「伊沢蘭軒」森鴎外より

ニ楸慎萄簔之内『道造り屋敷??(補地/残地)』表記の発見

   ↓ ↓  

・「菊坂上納屋敷」⇔「本郷丸山局見世長屋」

※理由:上納屋敷となったその頃からBGの検索がある。

◎経緯はこうである。

・長禄年間(1457-1460)ここいらは菊畑が広がる片側町であった、坂の

 上の方を菊坂台町、坂下の方を菊坂町と称した。

・1628(寛永5)年菊坂田町と共に、中間方大縄拝領地となった。

・1658(万治元)年一月十日 万治の大火に遭い、吉祥寺移転

・1696(元禄九)年に菊坂に町屋が許され、当町の「仁兵衛」他15名が当時の道奉行「武島次郎左衛門」「伊勢平八郎」にナダレ地の造成利用を申請し、翌年工事を俊成。雪崩地延長、205間、奥行 3〜4間半の長〜い、一つの長屋が、完成する。

・1698(元禄11)年町方支配となりて、本郷菊坂道造屋敷と唱え先の16 名で所有していた

・1703(元禄16)年 水戸様火事

・1704(宝永元)年 ・「小笠原 佐渡守屋敷」1704(宝永)〜1858(安政)年迄。また上地され、 (■「信濃上田藩松平家屋敷」の所有となり明治に至る。)

・1741頃(寛保年間)本郷菊坂道造屋敷公収され、召上げ

〇経過不明なるも、霊岸島四日市町家持「善兵衛」と云う者が16人中15人分の地券を取得。その者御蔵米廻船御用を請負し折本郷菊坂道造屋敷を質に差出していた 。☆※ここに注目☆右御用不埓(フラチ)に付御勘定奉行所御懸かりにより寛保年間(1741頃)故ありて公収され、召上げられた。過日、延享元年甲子(1744)入札の御触れあり。 

・1744(延享元)年甲子入札の御触れ

●『道造屋敷』競売される。  結果、當町「安右衛門」「権左衛門」と決まり、のち上納請負が命ぜられ「菊坂上納屋敷」が生まれた。 ※「本郷丸山局見世長屋」・・・別資料あり。

◎1799(寛政11)年己未11月18日北大番所「小田切土佐守様」御懸りにて右地所の町屋御取払いの上、武士地にし延長百八十八間余り、裏行 三間より五間迄不同の場所、同十二月申年2月24日、御普請方へと御引渡しに相成りその後旗本及び小役人の拝領地とした。(府内備考P126-127) (東京名所図会P83・89下)尚【道造屋敷残地】に関する他記述は。◎本郷菊坂町〇町名の起源と沿革の項に

※明治ニ年、道造屋敷の残地及び本郷四丁目五丁目の代地を併せ、また傍近の土地を合して其の町域を拡張せり。・・・とある。 (東京名所図会P88上より)

■【道造屋敷残地】 に、関する他の記述 ◆道造屋敷の残地とは、あの16人所持中の1人分の土地で、御養生所付の御用地となり明治期まで残った物である。※また、別記として重複するが、その実体は。一道造屋敷残地 南北へ12間8寸、東西へ5間、此坪60坪6合餘、但片側町、右は古来古券地の所、年暦相御用地と相成、当時小石川御養生所付御用地にて地守有之、地代金年々懸り町年寄へ相納、公益代人や區にて・・                  一ヶ年限28匁5分三月・八月・十一月の三度に相納申候(府内備考P126)

■纏め 「本郷古図を探る!!」  :本郷菊坂丁之内『道造屋敷残地』とあり、続地が「武家地」となっていることや水道橋がすでに吉祥寺橋で無い事。各寺院、屋敷配置等の諸条件から一次回答として書き込み最終年代を、ほぼ寛政11年(1799)11月18日以降でないかと考えている。 H1812 菊与

■本郷古図を探る関連!!…尚、与太郎調べでは◎1671(寛文11)年新板江戸外絵図から、この【道造屋敷残地】こそは、旧・中仙道「日蔭町筋」口、現・本郷三丁目交差点近く(本富士町)のソフトバンク携帯S/R位置にあった木戸番小屋のマークと同じマークがある、そのことから何故あの16人所持中の1人分の土地の公収に生残り、本郷丸山局見世長屋時代を通り過ぎ、「小田切土佐守様」御懸りにて「町屋御取払い」と風雲急を遂げた地帯であるが御養生所付の御用地となっていたからか、明治ニ年迄『道造屋敷残地』は残り続け、「本郷四丁目、五丁目の代地」を併せ、また傍近の土地を合して拡張するまで残ったのも納得できる話しである。  (※新撰東京名所圖會P88〜89)   菊坂の与太郎資料より(紫雲)  

しかし◆故ありて公収され競売される。とは・・・そこに何かがあった分けで、そこには時代劇によくある一大ドラマが見え隠れしているような気がしてならない。・謎は深まる一方であるが、時が満ちたらまた書くことにしたい。紫雲

                           本郷 菊坂の与太郎  H200427

 

『松岡博一』先生を偲ぶ

そうそう『法真寺』といえば、近くの落第横丁に、郷土愛に燃え、文京一葉会 に無くてはならない、とても熱心で面倒見の良い大島一郎氏がおられます。以前『一葉110周年忌』の折、元文京区議で文京一葉会及び赤門前町会の町会長をなさっていた『松岡博一』(2008年03/28歿)大先生を紹介して頂き後日、帝大「椿山古墳」を含む、郷土史の話しをすることが出来ました。 その折「東京大空襲の時は、門前横の「赤門ビル」で焼け止まったよ。」とお話下さり丁度持参していた「米軍の空襲直後の記録写真」を出すと・・・与「コレですよね。」

松岡「オ・オ・・・」と、その後時間の経つのを忘れてお互いに興味のあるお話しをしました。そんな愉しい想い出が昨日のように浮かんでまいります。『松岡博一』先生は文京区歯科医師会 第13代歴代会長をなさった方で、代々地主という家柄に産まれ、町会を愛し、一葉を愛し、郷土史を赤門町会の町会便りに纏め、長い間発行されてにまいりました。また、最近では東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻の専門家、『小鍜治 恵』氏達(小鍜治 恵・ 内田 弦・ 清水 英範・ 布施 孝志・敬称略)らが組んだプロジェクトに協力され「〜戦前・戦後の東京の街並み調査に向けて〜」都市史研究への火災保険特殊地図の応用可能性というデーターを、残されました。この『小鍜治 恵』氏が二度のヒヤリグをされ纏められた資料は、空白期である昭和初期の住環境分析だけではなく、航空写真等の測量等が未成熟期だった為か、唯一残されている数少ない年代の火災保険(保険料算出の為の住宅地図資料)に着眼し其の、誤差を古い年代の電話帳から住所や、建物の用途・所有者など気の遠くなるデーターを系統的に纏め上げ、戸籍地積図や地図だけでは分らなかった部分を古老などからの聴取により補い新たなる展開を見せた。デジタル化した『火保図』に、時の移ろいに左右されず時間空間を止めていた建物、区域。地域に多くの点を打ち、「戸田茂睡と炭団坂」で注目した(明和地所蠅依頼し、衂霏∧顕什盡Φ羹蠅行った「弓町遺跡第3地点」-集合住宅建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書に見られたような、最新の幾何補正手法を施し修整し信頼性の高い資料に仕上げられている貴重な資料である。

デジタル火災保険特殊地図が手に入ったら、今後これらを生かして今でしか記録できない貴重な古老からの記憶継承と、文献との比較利用をし『松岡博一』先生のようには行かないまでも調べを進め書き留めて置きたいと願っている、与太郎であった。『小鍜治 恵』氏と『松岡博一』先生の共同作業資料デジタル火災保険特殊地図利用できれば、空白時期の住宅地図、昭和初期の住宅地図として建物の位置・大きさを等が分かり、後生の為にも貴重な資料となることでしょうね。 その控えめなお姿に反し、見えないところで「人と、人とを結ぶ」大きな大きな働きをされて、逝かれました。またお会い出来る事を楽しみにしております。

     生前の活躍を偲び、心より冥福を祈ります。梨木庵 (梨木紫雲)

 

■「本郷古図を探る!!」 経緯 

覚えておられるだろうか、そもそもこの■「本郷古図」との出会いをあの JTBの『るるぶ情報版』や東京下町を歩こう'03〜'042003年7月1日に紹介されている 御菓子司【喜久月】のご主人の一言から始まっている。

■基点「本郷三丁目交差点」シリーズ案内 第二回 Aコース)槎寺谷界隈コース小笠原 佐渡守」屋敷跡※ここで、いつもお世話になる真砂町の和菓子の老舗のご主人から、新情報です。昔この辺に短い運河があったそうで古地図に載っていたとか・・・。また追って報告します。という箇所である。 御菓子司【喜久月】さんの御主人栗田氏には■もう一つの「小笠原 佐渡守屋敷跡」裏事情の表題写真を提供して頂いていたり、今回のような隠れた情報を提供していただいたりしている。とても郷土を愛している方で、写真の実力もなかなか素晴らしいと与太郎も注目している一人である。 現にご存知であろうか郷土の資料として貴重なコミュニティ・タウン誌「本郷」の第二巻「本郷三丁目交差点」を見事に捉えているのがこの栗田氏である。昨年の櫻木神社大祭では町会の総代を務め、お馴染地元のケーブルTV ◎【TCN東京ケーブルネットワーク】人気者!!たばちゃん♪と以前よりお知り合いでもありTVでも良く紹介されている。

[お店の商品はどれも誠実なお人柄が作り出す作品ばかりです。季節先取りの作品ではあの見事な練り切りが、そして和三盆などの控えめな甘さの品もあり、本郷の隠れた地元「本妙寺坂」でのお奨めの『甘味処』です。 特に「お赤飯」これは要予約03−3811−0467ですがうまいです。また最近の冷房(クーラー)病などや、寒い季節など体が芯から冷える方や・食欲の無い御病人さんへのお見舞いなどにも「葛湯」は、値段もお手ごろお土産に、菊坂の与太郎お勧めの一品です。近くの小中学校でも学校行事の折にはこの店を利用しているようです与。あっ、(^^; こんなこと書いてますけど、  φ(.. )メモメモ 一切お金等貰っておりませんのでお断り、そう地元民としては美味しいものは美味しいし独り占めするのは申し訳ないので、此処まで今回読んで下さった方、そして本郷散策された方にだけのマル秘情報でした。]

その栗田さんを紹介してくださったのが、今を時めくブログの老舗『Kai-Wai 散策のmasaさんこと写真家の村田賢比古氏なのである。masaさんは高度な撮影技法を兼ね備えた方で、そのあたたかみのあるコメントも評判である。 もう、皆さんは写真集『時差ボケ東京』をご覧になりましたか?。 村田さんが出版なさった写真集はその空間の捉え方が特殊で空間認識を一変させられます。どうやって撮ったのでしょうか、云わば1976年に我々が驚かされたステディカム(STEADICAM) で撮ったような不思議な空間がそこには広がっているのです。その本は ISBN4-9904156-0-0 価格は3600円(税別)で■銀座の「ブックファースト銀座コア店」や■池袋の「ジュンク堂池袋本店 ■京島の「LOVE GARDEN」  ■神保町の「ブック・ダイバー ■堀切の「青木書店」等でも取り扱いしているようです。小生などは近くの本屋にISBN番号メモで、注文いたしました。製本にもかなりの力を注がれたようで、その創り方、写真配置等にもかなり気を使われておられ優秀なデザイナーがサポートされているようでその存在感たるや、一つのミクロコスモを写真集の中に有しているようです。オット、いけない紹介に夢中になって■「本郷古図」を忘れてしまうところでした。ハッハッハ

◎我が真砂図書館のレファレンスはとても優秀です。そんな訳で図書館に新たなる短い運河が載っている古地図を探しに与太郎は真砂図書館へと・・出向いた訳です。そこでレファレンスコーナーでこんな地図を見に来たのですがと、大下水運河の載っている地図の話をすると、長幡さんが探し出して下さったのが制作年代未定の『本郷古図』だったのです。 保存封筒の中から取り出したその地図は、大きさ( × )一枚物でウヤウヤしく、いかにも古そうな譬えわ悪いが、ミイラの包帯のような色の布サックで覆われており、恐る恐る広げるとそこには待ちに待った、ハツキリとした大下水の存在を示すカラー地図が広がっていたのです。ですが、例えば附木店からの道などの規模認識が甘く、かなり大雑把な物であると云う第一印象を持ちました。ですが例の喜福寿寺と法真寺の間の謎の神殿風建物の位置に、存在していた永福寺が描かれていたのです。そこで、興味をさらに持ちもう一度見直していると、今度は大下水に橋がしっかりと描かれていたのです。そこで各寺院や屋敷配置の土地の利用などの把握から始め、各年代を調べて平成18年暮れの一次回答になったわけです。 そして、土地や領地の所有者調べで停滞気味であった古地図分析も、いよいよ時が満ち◆本郷古図を探る関連!!…追記とあいなりました。

■動きがあった。先日真砂図書館に質問の回答を貰いに行くと、「本郷古図」を出していただいた時、お世話になっている長幡さんに久しぶりにお会いしそこでやっと平成十八年の一次回答を伝えられました。そして同時に表記の在った気になる右京山位置の中屋敷【松平錫】なる所有者を調べていただいた、小生は府内備考弐巻のP129にその名を見出していた物の上野高崎藩以外は分からなかった。そこで調べていただいたら数日後・・・・連絡が、そしてこの人物こそが「本郷古図」作成年代を狭め極める為の一つの重要なKeyポイントであった・・・。 そう、案内された資料は『三百藩藩主人名辞典』一巻 分類[281]#401096186-P343であった。この【松平錫】なる人物はね通召如大河内輝承(テルヨシ)なる人物が藩主相続として1825(文政八)年4/4に行なわれ、当主期間が1840(天保十)年6/26まで、つまりその日卒したと記録されていた。 上野高崎藩 8万2千石 大河内家の第六代当主であった。

この事により、ほぼ寛政11年(1799)11月18日 以降、1825-1840年代の間ということがいえるのではないだろうか。そして地図を眺めている内に、【松平錫】という幼名で書かれている点やその南側の土地領地の所有者の詳細記載の点からこの近辺に制作者が存在したのではないかとも考えている。松平関係では、松平老之助が位置は違うが安永八年の他の地図に所有者名が見られるようだ。また時が満ちるのを待つことにする。(梨木紫雲)今日も時間が来たので、ここで筆を止めることにする。 H20 7/17工事中 

■後記 『一葉忌』 菊坂界隈案内 【H20年版】に記しましたが実は、清瀬の郷土史会の方からのお誘いでH20-11/24日、野火止の庵「睡足軒」に散歩し、「睡足軒」のコンサート+野火止の「平林寺」へ参りました。するとどうでしょう此処こそが大河内家の菩提寺だったのです。なんと云う偶然でしょう。世の中不思議なことが続くものです、時が満ちたらいずれ・・。

・加筆 元禄期菊坂部分及び『松岡博一』先生を偲ぶ配置。H2105

・岩下きむ様の項加筆、地図等挿入 H220719 永福寺